読む会だより26年10月用
「読む会」だより(26年10月用) 文責IZ
(9月の議論など)
9月の「読む会」は20日に開催されました。
(前月の議論)封建社会での「富の形態」についてチューターがこだわっているのは、例えば第3巻第47章でマルクスが「地代<労働地代>は、ここでは、正常な、いっさいを吸収する、いわば正当な剰余労働形態なのであって……」(全集版Ⅲ、P1016)などと語っているからです。とりあえず撤回して地代を検討する際に再考させてもらいます。
なお、封建的生産様式についてマルクスがどう語っているのかについて、<別紙>に【参考資料】として『資本論辞典』(青木書店)での要約を引用しておきました。「……領主は、生産過程において何らの経済的機能も果たさず、名目的な土地所有者にすぎない。こういう条件の下では、名目的な土地所有者は、経済的機能から生じてくる強制関係によっては、他人の剰余労働を搾取することができず、《経済外的強制》によるほかない」といった指摘は、封建制や身分制の理解の参考になるかと思います。
質問は出ませんでしたが、資本主義的私有の“原理”と言ったのは、要するに労働力を除く生産条件が資本家階級の独占物となっているために、そこで生み出された社会的な富──それは集中された生産手段や集中された労働力によって増大した“社会的”な生産力の成果である──のすべてが資本家階級のものとされ、他方で生産階級である労働者はそのうちから必要労働部分だけを賃金として受け取る“権利”をもつ、という“原理”という意味で使っています。そこで指摘したかったのは、生産条件(労働力以外の)が他人の所有物として“分離(遊離)”(ないし“疎外”)されているがゆえに、富の創出・再生産を通じて、生産条件(資本)が「労働者を働かせる」とともに自らを「自己増殖する既存の価値」すなわち資本と成すという、ひとつの“自律的なシステム”が出来上がっているということです。
一見"自律的”で強固に見える資本のシステムも、所詮は不払労働を吸収するという社会関係が自立化したものにすぎません。「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれを変えることである」(『フォイエルバッハ・テーゼ』の11)と、マルクスが語っているように、今やその社会関係の変革こそが課題に上っているのです。
(説明)の6項では、「たより」で、社会変革の時期には「分娩の苦痛を短くし緩和する」ための「組織された暴力」が"必然"となる、と触れた件が議論になりました。これには、客観的な事情がそうした変革を後押しているとしても、主体的な条件抜きに必然性の現実性への転化を語ることはできないと参加者から発言がありました。チューターもそのように思います。必然だということは、社会変革においてはそれを現実化するために何もしないでよいということではありません。資本制の興隆の中で無権利状態のもとでも多くの労働者が犠牲をいとわずに闘ってきました。その"遺産”を今まだ私たち世界中の労働者が享受しているということを忘れることはできません。労働条件を自らの手に取り戻すための労働者の闘いが、歴史的でもあり世界的でもあることの証左と思います。(当日の議論の趣旨を取り違えていたら申し訳ありません。)
7項では「自分の労働に基づく私有」の否定の否定である「個人的所有」とは、たよりにあるような"消費手段”の所有を意味するのではなくて、あくまで"生産手段”の共有の問題ではないか、という質問が出ました。分配関係が生産関係の結果である、つまり生産手段と生産者との関わり方の中にあるという点に異論はありません。また第一の否定とは、"生産手段の所有に基づく他人の労働の私有”ということでしょう。しかしここでは「協業と……労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする"個人的所有”をつくりだす」とあるのですから、個人的に"所有”できる──つまり個人的に"自由に処分し得る”──ものは、社会的共同的に占有・利用される生産手段ではなくて、"共同”生産物のうちの個人的分有分(したがって消費手段)でしかないようにチューターには思われます。(時間が取れればもう少し検討します。)
(説明) 第25章 近代植民理論
なぜ植民地や植民理論が第1巻の最後で問題になるのでしょうか?
前章「いわゆる本源的蓄積」の復習になりますが、第1節ではこう触れられていました。
・「貨幣も商品も最初から資本ではないのであって、ちょうど生産手段や生活手段がそうでないのと同じことである。これらのものは資本への転化を必要とする。しかし、この転化そのものは一定の事情のもとでなければ行なわれえないのであって、この事情は要するに次のことに帰着する。@
すなわち、二つの非常に違った種類の商品所持者が対面し接触しなければならないという事情である。その一方に立つのは、貨幣や生産手段や生活手段の所有者であって、彼らにとっては自分がもっている価値額を他人の労働力の買い入れによって増殖することこそが必要なのである。他方に立つのは、自由な労働者、つまり自分の労働力の売り手であり、したがってまた労働の売り手である。@
自由な労働者というのは、奴隷や農奴のように彼ら自身が直接に生産手段の一部分であるのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らのものであるのでもなく、彼らはむしろ生産手段から自由であり離れており免れているという二重の意味で、そうなのである。このような商品市場の両極分化とともに、資本主義的生産の基本条件は与えられているのである。@
資本関係は労働者と労働実現条件の所有との分離を前提する。資本主義的生産がひとたび自分の足で立つようになれば、それはこの分離をただ維持するだけではなく、ますます大きくなる規模でそれを再生産する。だから資本関係を創造する過程は、労働者を自分の労働条件の所有から分離させる過程以外のなにものでもありえないのである。つまり、いわゆる本源的蓄積<剰余価値の資本への転化に基づく資本主義的蓄積とは区別される>は、生産者と生産手段との歴史的分離過程<つまり労働者階級の形成過程>にほかならないのである。それが「本源的」として現われるのは、それが資本の前史をなしており、また資本に対応する生産様式の前史をなしているからである。
資本主義社会の経済的構造は封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を解き放したのである。」(全集版、P933~)
簡単にいえば、資本主義的生産──使用価値の取得自体を目的とするのではなくて、その流通を介した剰余価値の取得(価値増殖)を目的とする──の基本的な条件は、直接的生産者である労働者とその労働の実現するために生産手段との分離(資本家によるその独占)なのでした。
また、第3節ではこうも言われていました。
・「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力の他には売るものがないという人間が現われることだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や習慣によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産過程の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖要求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は「生産の自然法則」に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。@
資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節」するために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押し込んでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積のひとつの本質的な契機なのである。」(全集版、P963~)
要するに、客体的な労働条件から切り離された後で、さらに労働者が自らの労働力を剰余価値取得の手段として資本に"販売”することを「自然法則」として認めることによって、はじめて「無言の強制」による資本の支配は完成する、と言うのです。
ところが、労働者とその生産手段である土地との分離がいまだ確立しておらず、また自らの労働力の販売を自然法則として認めることもしない世界が当時存在しました。それが植民地(とりわけ広大な平野を持つアメリカ)でした。そこでの資本関係の発達と植民理論とは、資本の価値増殖の"秘密”を事実で語っています。つまり労働力商品の"売買”を通じて行われる不払労働の取得、これこそが資本とその"国富”の源泉であり、それがなければ資本の蓄積はないのです。だからこそ第1巻「資本の生産過程」の最後にその"証拠”として近代植民理論が置かれているのです。
(1. 植民地では、自己の労働による私有と他人の労働の搾取による私有という正反対の私有が対立する)
・「経済学は二つの非常に違う種類の私有を原理的に混同している。その一方は生産者自身の労働にもとづくものであり、他方は他人の労働の搾取にもとづくものである。後者はたんに前者の正反対であるだけではなく、ただ前者の墳墓の上でのみ成長するものだということを、経済学は忘れているのである。
ヨーロッパの西部、経済学の生まれた国では、本源的蓄積の過程は多かれ少なかれすでに終わっている。そこでは、資本主義的支配体制は、国民的生産全体をすでに直接に自分に従属させているか、または、事情がまだそこまで発展していないところでは、この体制のかたわらに存続してはいるがしだいに衰退してゆく社会層、時代遅れの生産様式に付随している社会層を、少なくとも間接には、支配している。……
植民地ではそうではない。植民地ではどこでも資本主義的支配体制は、自分の労働条件の所有者として自分の労働によって資本家を富ませるのではなく自分自身を富ませる生産者という障害にぶつかる。植民地ではこの二つの正反対の経済制度の矛盾が、両者の闘争のなかで実際に現われている。資本家の背後に本国の権力があるところでは、資本家は、自己の労働にもとづく生産・取得様式を暴力によって一掃しようとする。資本の追従者である経済学者に、本国では資本主義的生産様式を理論的にそれ自身の反対物として説明する任務を負わせる利害関係、その同じ利害関係が、植民地では彼をそそのかして「事情を打ち明け」させ、二つの生産様式の対立を声高く宣言させるのである。この目的のために、彼は、労働の社会的生産力の発展や協業や分業や機械の大規模応用などは労働者たちの収奪とそれに対応する彼らの生産手段の資本への転化なしには不可能だということを指摘する。いわゆる国富のために、彼は人民の貧困をつくりだす人工的手段を探求する。彼の弁護論的甲冑<かっちゅう、鎧>は、植民地ではぼろぼろになった火口(ほぐち)のように次々に壊れてゆくのである。」(全集版、P997~998)
(2. 自由な植民地の本質は、生産条件(労働対象、労働手段)の根底である広大な土地が、民衆の所有の下にあることである)
・「これから述べるウェークフィールドの諸発見の理解のために、二つの前置きをしておこう。<第一に>いうまでもなく、生産手段も生活手段も、直接的生産者の所有物としては、資本ではない。それが資本になるのは、ただ、それが同時に<他人の所有物として>労働者の搾取・支配手段としても役だつような諸条件があるときだけである。……
<第二に>すでに見たように、民衆からの土地の収奪は資本主義的生産様式の基礎をなしている。これとは反対に、自由な植民地の本質は、広大な土地がまだ民衆の所有であり、したがって移住者は誰でもその一部分を自分の私有地にし個人的生産手段にすることができ、しかもそうすることによって後から来る移住者が同じようにすることを妨げないという点にある。これが植民地の繁栄の秘密でもあれば、その癌腫──資本の移住にたいするその抵抗──の秘密でもあるのである。……
植民地では労働条件とその根源である土地からの労働者の分離がまだ存在しないか、また存在してもただ散在的にかまたは非常に局限された範囲でしか存在しないのだから、工業からの農業の分離も農村家内工業の絶滅もまだ存在しない……」(同、P999~1002)
(3. 植民地における労働者の独立生産者への絶え間ない転化は、相対的過剰人口という資本の強力な従属手段を無効化する。労働者の資本への絶対的な従属感情とともに、賃労働と資本との平等な契約関係という妄想は消え去る。ウェークフィールドの組織的植民論は、この"欠点”を補うために人工的に人民の貧困をつくりだそうというものにすぎない)
・「資本主義的生産の大きな美点は、それが絶えず賃労働者を賃労働者として再生産するだけではなく、資本の蓄積に比例してつねに賃労働者の相対的過剰人口を生産するという点にある。こうして、労働の需要供給の法則が正しい軌道の上に保たれ、賃金の変動が資本主義的搾取に適合する限度内に制限されるのであり、そして最後に、あのように不可欠な、資本家への労働者の社会的従属が保証されるのである。それは一つの絶対的な従属関係なのであるが、それを、本国にいる経済学者は、買い手と売り手との、つまり一方は資本という商品を持っており他方は労働という商品を持っている対等で独立な商品所持者同士の、自由な契約関係だとうまく言いくるめることができるのである。だが、植民地ではこの美しい妄想は引き裂かれてしまう。そこでは、多くの労働者がはじめから大人になって生まれてくるので、絶対的人口は本国でよりもずっと急速に増加するが、それでもなお労働市場はつねに供給不足である。労働の需要供給の法則は破られてしまう。一方では、古い世界から搾取を欲し禁欲を望む資本が絶えず投げこまれてくる。他方では、賃労働者としての賃労働者の規則的な再生産が、非常にやっかいで一部は克服もできない障害にぶつかる。それだのに、資本の蓄積に比例しての過剰な賃労働者の生産とは、なんということなのか! 今日の賃金労働者は、明日は独立自営の農民か手工業者になってしまう。彼は労働市場から消え去ってしまう、といっても──救貧院に行くのではない。このような、賃労働者から独立生産者への不断の転化、すなわち、資本のためにではなく自分のために労働して資本家さまではなく自分自身を富ませる独立生産者への転化は、<資本家にとっては>それ自身また労働市場の状態にまったく有害な反作用をする。賃労働者の搾取度が不都合な低さにとどまっているだけではない。そのうえに、賃労働者は、禁欲する資本家への従属関係といっしょに従属感情もなくしてしまう。こうして、わがE・G・ウェークフィールドがあのように健気に、あのように雄弁に、そしてあのように感動的に語っているありとあらゆる弊害が生まれるのである。」(同、P1003)
・「では、ウェークフィールドに言わせれば、植民地におけるこのような弊害の結果はなになのだろうか? それは生産者と国民財産との「分散の野蛮な制度」である。無数の自営的所有者の間への生産手段の分散は資本の集中を破壊するとともに結合労働の全ての基礎を破壊してしまう。長い年月にわたっていて固定資本の投下を必要とする長期の企業は、全て実行上の障害にぶつかる。ヨーロッパでは資本は一瞬間もぐずぐずしてはいない。なぜならば、労働者階級は資本の生きている付属物になっていて、いつでも有り余っており、いつでも利用できるからである。ところが、植民地ではどうだ! 。……
ウェークフィールドは、イギリスの資本主義的農業やその「結合」労働をアメリカの分散的な農民経営と華やかに対比して見せた後で、うっかりメダルの裏側まで見せている。彼はアメリカの民衆を裕福で独立的で企業心に富み比較的教養のあるものとして描いている。ところが、
「イギリスの農業労働者は哀れなやつで、受救貧民である。……北アメリカや僅かばかりの新しい植民地を別にすれば、果たしてどの国で、農村で充用される自由な労働者の賃金が労働者の最低必要生産手段を幾らかでも超過しているであろうか? ……疑いもなく、イギリスの農耕馬は、一つの貴重な財産なので、イギリスの耕作者よりもずっとましな食物を与えられている。」
だが、心配することはない。国の富というのはもともと人民の貧困と同じなのだから。
では、植民地の反資本主義的な癌腫はどうすればなおるだろうか? もしすべての土地を一挙に国民的所有から<独占的>私有に転化させようとするならば、それは、たしかに悪弊の根源を絶やすことになるであろうが、しかしまた──それは植民地をも滅ぼしてしまうであろう。一石二鳥、それが技というものである。かりに、政府の力で処女地に需要供給の法則にはかかわりのない価格をつけ、この人為的な価格のために、移住者は土地を買って独立農民になれるだけの貨幣を稼ぐまでには今よりももっと長く賃労働をしなければならなくなるとしよう。他方、政府は、侵害によって労賃から搾り取られるこの貨幣財源を、それが大きくなるのと同じ割合でヨーロッパから植民地に貧民を輸入して資本家さまのために彼の賃労働市場を一杯にしておくために、利用するとしよう。こういう事情のもとでは、最善の世界では万事が最善の状態にあるということになるであろう。これが「組織的植民」の大きな秘密なのである。……
とはいえ、われわれはここでは植民地の状態にかかずらっているのではない。ただ一つわれわれの関心をひくものは、新しい世界で古い世界の経済学によって発見されて声高く告げ知らされたあの秘密、すなわち、資本主義的生産・蓄積様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく私有の絶滅、すなわち労働者の収奪を条件とするということである。」(全集版、P1005~1010)
ブルジョア経済学は今でも、資本主義的私有──すなわち生産手段の所有に基づく他人の労働の私有──を「労働による私有」だと詐称・強弁します。(この点についての批判は第21章「単純再生産」で詳しく触れられました。)
ウェークフィールドの「組織的植民論」もこうした資本弁護論の一つなのですが、そこでは(1)政府は自由な土地に高い価格を付けるべきである。(2)価格が高ければ、移民は、土地を手に入れるのに必要な金銭を蓄積して独立の生産者になるまでに長い間雇われて働かなくてはならなくなるだろう。(3)土地の売却によって得た貨幣は、新しい移民の移住のために、すなわち新しい「すっかんぴん」の輸入のために、支出すべきである。彼らが、賃金労働者の隊列から退いて独立の生産者になった者に代わって、働かなければならない。(ローゼンベルクによる要約)と語っています。
マルクスが彼の著を評して「植民地における賃金労働者の製造」理論と呼んだのも納得できることでしょう。
<別紙> 封建的土地所有と封建的生産様式 (『資本論辞典』P402、飯田貫一氏より)
封建的土地所有
Ⅰ 意義
封建的土地所有とは、《封建的生産様式》に対応し、その生産様式の基礎となっている、一つの独自な歴史的土地所有形態である。《所有》とは、本来、人間が彼に所属するものとしての、自分のものとしての生産諸条件に対する関係に他ならず、《土地所有》は、特定の人物(あるいは人間集団)が、地球の一定部分を自分のものとして、その私的意思の排他的領域として、自由に処理するという、特定人物(または人間集団)による《独占》を前提としている。そしてのこの土地所有の独占が、資本主義的生産様式の、また何らかの形態での大衆搾取に基づくすべての旧来の生産様式の歴史的前提なのであり、またその恒常的基礎となっているのである(KⅢ-665)。封建的土地所有は、封建領主による土地所有の独占であり、これを基礎にして、領主による農奴的農民の搾取が行なわれるのである。
Ⅱ 封建的土地所有とそれに基づく封建的生産様式の構造
封建的生産様式の下では、土地が最も重要な生産条件である。というのは、土地は、天然に存在する労働対象であり、また労働手段でもあって、いっさいを包括する労働条件であるからである(K-Ⅰ186-187)。ところがこの土地は、封建領主の所有となっていて、直接的生産者である農民にとっては、他人によって所有される労働条件なのであり、彼はその占有者にすぎない。だが直接的生産者が自分自身の生活手段の生産のために必要な生産手段および労働条件の占有者にすぎないような条件の下では、所有関係は、同時に、直接的な支配=隷属関係として現われざるを得ない。というのは、この所有関係が、労働力の所有者をして、彼自身の不可欠な欲望を満たすのに必要な程度以上に、この労働力を使い、働かせることを余儀なくさせるからである(KⅢ-840)。こうして直接的生産者たる農民は、人格的に非自由な《農奴》として、土地所有者たる領主に隷属し、領主の土地にその付属物として緊縛され、彼の剰余労働、剰余生産物は、《地代》の形態で、領主によって取得され、こうして地代は、土地所有が経済的に自己を実現する形態となっている(KⅢ-667)。@
ところで、土地は農奴的農民によって占有されるにすぎないとはいえ、労働力およびその他の労働用具(犂、家畜など)は彼の所有するところであり、それによって彼は、自分の《農耕》およびこれと結びついた《農村家内工業》を自立して営む。この場合、領主は、生産過程において何らの経済的機能も果たさず、名目的な土地所有者にすぎない。こういう条件の下では、名目的な土地所有者は、経済的機能から生じてくる強制関係によっては、他人の剰余労働を搾取することができず、《経済外的強制》によるほかない(KⅢ-841)。そしてこの強制関係は、人格的な支配=隷属関係に立脚する土地所有の権力(KⅠ-153)による政治的な──直接的、あるいは法律的な──強制関係以外の何ものでもない。その点で、同じく剰余労働を搾取する資本関係が、生産過程における指導者としての資本家の種々の経済的機能から生じてくる強制関係であるのと違っている。こうして封建的土地所有の下では、身分的な支配=隷属関係とそれから出てくる経済外的強制とが、この土地所有の不可欠の属性となっており、地代が剰余労働および剰余生産物の唯一の支配的で、正常的な形態となっている(KⅢ-843,845)。
Ⅲ 封建的土地所有の形成と解体
…………省略…………
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