復習2 価値形態と貨幣、価格
【復習2】 価値形態と貨幣、価格 について
復習1(商品と価値)で触れたように、商品は、一方では具体的有用労働が対象化された種々に質的に異なる使用価値(有用物)ですが、他方ではそうしたものとは全く異なる、無差別な抽象的人間労働が対象化された同質なもの(大きさだけ違うもの)、つまり交換価値としても現れています。この商品の交換価値の内容が「価値」なのですが、それは質的には社会的に同等な抽象的人間労働(価値の実体)として、量的には支出労働時間(ないし必要労働時間)として規定されます。
商品の価値(ないし価値性格)は、無政府的な私的生産と商品交換に基づく社会が、その中においても社会的な再生産を継続していくために、社会の総労働が諸分野に分割され、またそれぞれ一定の割合で配分されなければならないという必然性の中で、生産物=商品が持つ社会的な性格──人間=社会自身が総労働の配分を意識的に組織できないのだから──なのでした。
商品に含まれる労働は、このように二つの側面(有用労働と抽象的労働との)を同時に持ちます。それは労働一般が、一方では諸有用物を生み出すと同時に、その労働がいつでも人々の一定の社会関係の下で行なわれるために一定の社会的性格を持たざるをえないということの、この社会での現われ方なのです(つまり労働の社会的な性格が、ここでは無差別な抽象的労働という独特な姿をとるのです)。だから問題は、労働が一定の社会的な性格を持つところにあるのではなくて、商品社会あるいはその発展した資本主義社会においては、この人間の“労働”のもつ社会的な性格が、商品のすなわち生産“物”のもつ性格として現われるという点にあるのです)。《第1章「商品」の1節「商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)、2節「商品に表わされる労働の二重性」、など参照されたい》
このように商品の価値とは、商品を生産する労働の社会的に同等な性格なのですが、しかしながら、商品自体は諸有用物であり、“物”としての姿しかもっていません。だから商品自体が支出労働時間を表現するなどということは不可能なはずです(それは商品の交換を通じて、同等性として現れることができるだけです)。しかしながら、交換を通じて現われるにせよ何にせよ、やはり商品自体がそれ(価値=必要労働時間)を表わすことが出来なければ、商品交換を通じて社会生活を継続的に成立させることはできません。繰り返しですが、人間=社会が総労働を組織してはいないのですから。
では、商品はどのようにして自分の価値を表現しているのでしょうか? 商品は自分とは別の、ある特定の商品を自分の“価値の形態(現象形態)”と見なし、その特定の商品の一定量と自分は同じだという関係を結ぶこと(等置)によって、自分の価値を“相対的に“表現するのです。例えば、1着の上着(必要労働時間20時間)は、その必要労働時間を上着の姿そのもので表わすことはできませんが、上着は別の商品(例えば、1キロの茶、必要労働時間10時間)を自分の価値表現の相手とし、2キロの茶と自分は交換可能だ、同等だ(1着の上着=2キロ茶)という形で、表現するのです。このように商品の価値表現は、自分の価値の大きさを必要労働時間として直接に表現するわけではなくて、価値表現の相手として等置される他商品の“物”の大きさによって、いわば相手の姿をとって“相対的に”表現するという方法をとっているのです(いわゆる“回り道”)。
こうした商品による価値の表現関係が発展すると、商品世界は一つの商品(金)をその世界から除外して、その除外した金・商品の、“物”としての、特定の使用価値としての大きさで、すべての商品が自分の価値を表現する(除外した商品以外は)という関係が出来上がります。そしてこうした関係のなかでは、すべての商品が金という同じ素材でその価値を表現するのですから、どの商品も=x量の金という同じ姿で自らの価値を表現することになります。またこの関係の中では商品・金は価値の大きさを計るための尺度となることで貨幣の役割を担います。この貨幣・金という同じ物の大きさで計った、諸商品に共通な価値の大きさ(必要労働時間)の表現、言い換えれば商品の価値が観念的にそれに等置されている金量、これが商品の「価格」です。
この関係の中では、その除外された商品の姿をとって全ての商品が同質なものとして現れるのですから、事実上そこでは、商品に含まれるすべての労働が同質な社会的労働として現れるということになります。つまり価格(等置された金量)という姿をもつことによって、諸商品は(それらの使用価値の違いにもかかわらず、したがってまた諸個人の欲望とは無関係に)相互にその価値を表現しあい、相互に価値として関係しあうことが可能になるのです。
しかしながら諸商品は、価格を持ち価格の姿で相互に価値として関係しあうことができるようになったからといっても、それだけでは自分たちの力で総労働を配分できるわけではありません。このためには、実際に商品の全面的な相互転換(交換)が、つまり商品“流通”が行なわれなければなりません。商品自身は他の商品との交換“可能性”を価格として持っているだけですが、しかし、貨幣・金のほうは、それがすべての商品の“価値の形態”として認められているのですから、任意の商品との直接的交換可能性を持っていることになります。そこで商品はいったん貨幣の姿に置き換わることが出来るなら、今度はどんな商品とも任意に(価値量が同じであれば)置き換わることが出来ることになります。こうして諸商品は、貨幣の姿(価値の姿)を媒介にして───つまりW-G-Wの形態転換によって、あるいは商品交換を「売り」と「買い」の契機に分離することによって───全面的な相互転換を行ない、人間の社会的・物質的生活を、商品どうしの交換すなわち素材転換によって成り立たせ、総労働の配分を規制することが可能になるのです。
ところで貨幣・金は、この価値表現と商品交換の関係の外においては特定の自然的性質を持った使用価値にすぎません。しかしだからこそ貨幣・金は、他商品との直接的交換可能性という社会的性格をその一身に背負う独立した存在(実在物)として、つまりそれへの転態によって商品流通を媒介する“物”として社会的に認められるのです。こうして、商品の価値形態(貨幣形態)は貨幣・金においてその自然形態と「癒着」するのです。
マルクスが「貨幣の魔術」について語っている所を紹介しておきましょう。
・「われわれが見たように、すでに x量の商品A=y量の商品B という最も単純な価値表現にあっても、他の一つの物の価値量がそれで表わされるところの物<右辺>は、その等価形態<交換可能性>をこの関係にはかかわりなく社会的な自然属性としてもっているかのように見える。われわれはこの間違った外観の固定化を追跡した。この外観は、一般的等価形態が一つの特別な商品種類の現物形態と合生すれば、または貨幣形態に結晶すれば、すでに完成している。<貨幣となる>一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものの結果では消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない。諸商品は、なにもすることなしに、自分自身の完成した価値姿態を、自分のそとに自分と並んで存在する一つの商品体として、眼前に見いだすのである。これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。」(第2章末尾、全集版、P121)
最後に、間違いやすい点を一つだけ。商品が「価格」を持つということは、私的な労働が社会的な労働として表現されるということですが、「価格」が“実現”されるということは、商品が貨幣になるということ、つまり私的な労働が社会的に必要な労働として認められることを意味します。他方、商品が「価値」を持つということは、その生産のために社会的な労働の一定量が支出されたということですが、「価値」が“実現”されるということは、他の商品(価値量が同じ)と置き換わったということを意味します。《第1章の3節「価値形態または交換価値」、4節「商品の呪物的性格とその秘密」、第2章「交換過程」など参照されたい》
第3章での貨幣の諸機能、とりわけ価値章標や管理通貨の問題は当面省かせてもらいました。
ただ、「資本としての貨幣」と区別される「単なる貨幣としての貨幣(流通手段としての貨幣)」は、それがW-G-Wという商品流通を媒介し、総労働を配分するために私的な労働を同質な社会的な労働に置き換える契機をなしているということ、そして誰にでも頭に浮かぶであろう貨幣の“購買手段”という機能は、単にW-G-Wの後半の一部分を切り離しただけのものにすぎない(後半のG-Wは、前半のW-Gの結果として存在する)、とだけ付言しておきます。
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