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読む会だより26年7月用

  「読む会」だより(2 6 年 7 月用) 文責IZ   ( 6 月の議論など)   6月の「読む会」は21日に開催されました。 (前月の議論)の所では、 ①封建社会での富(富の社会的形態)とは何であったのか、②社会関係が物の姿をとるとはどういうことか、という二つの質問が出されて今回まとめて説明することになりました。 まず ②の問題ですが、発展した商品生産を基礎としている資本主義社会では、生産物は生産者自身による直接的な使用を目的として生産されるのではなくて、交換を通じた他人の使用を目的とする「商品」という姿をとっている、ということが根本です。このために生産物は有用物(使用価値)であるとともに交換物(交換価値)でもある──交易の中では──という二重の性格を持ちます。前者の使用価値は生産物の物質的属性に基づく人間にとっての有用性であって、歴史的な社会関係によって変わるわけではありません。これに対して後者の交換価値──たとえば食パン1斤は鉛筆2本と等価である、あるいは等価物である──は社会的な労働支出としての両者の等価関係の表示であって、それぞれの物質的属性とは全く無縁です。この交換比率はそれぞれの生産力の変化に応じて変動し、それに応じて総労働量の分配も変化することになります。通常この比率はそれぞれの「価格」の変動として共通に表示されます──たとえば食パン1斤=100円=鉛筆2本だったものが、1斤=100円=4本になり、結果、鉛筆製造労働者が半減する等々。 両者について、ここでは『経済学批判要綱』のなかでマルクスが引用しているシスモンディの説明を紹介しておきましょう。 「 穀物や亜麻布は、たとえ天から降ってきたものであっても、 ……その所有者にとっては依然として有用であろう。それは疑いもなく、富、享楽、および効用性の真の評価である。しかし人間が……自分で作れば作れるはずのその生活資料を交換に、あるいは商業に依存させるようにしたその瞬間から、彼らは交換価値、<すなわち>効用性から出てくるのではないその価値に別の評価を付与することを余儀なくされるようになった。すなわちその価値は、 社会全体の欲望とこの欲望を充足するために十分な労働の量との関係 から、あるいはまた将来それを充足することができるであろう労働の量によって出てくるものである...

読む会だより26年6月用

  「読む会」だより(2 6 年 6 月用) 文責IZ   ( 5 月の議論など)   5月の「読む会」は17日に開催されました。 (前月の議論)の所では、【別紙】に関係して共同体社会では貨幣はなくなるということか、という質問がまず出ました。参加者からは、共同的に生産がなされ社会的な欲望に応じた生産が組織されるならば、支出された労働時間は貨幣という物の姿をとる必要はないだろう、という発言がありました。労働時間の短縮が豊かな人間生活に結びつくなら、今のように余暇時間をストレス発散だけのために使うといったこともなくなるのではないか、という感想も出されました。(そのための根本条件が、生産条件である生産手段の共有であり、そこでの「個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々」どうしの人間関係の形成でしょう。『共産党宣言』のなかでは、この共同体について、「階級と階級対立の上に立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの結合社会」と表現されています。) また関連して、社会主義の段階では芸術家等の労働はどうなるのか、社会的労働時間に含まれるのか、という質問が出ました。チューターは、基本的に問題になるのは社会生活の再生産を保証する物質的な労働(生産的労働)ということだから、芸術等は社会的労働時間に含まれるのではなくて、いわば自由な余暇時間に含まれるだろうと答えました。 別の参加者からは、共同社会では総生産物の分配が労働時間によって規制されるということか、という質問が出ました。総生産物の分配については、マルクスが『ゴータ綱領批判』のなかで述べているようにいくつかの条件があるので、次回(今回)紹介することになりました。(末尾に【参考資料】として簡単な説明をつけて紹介します。)   (説明)の所では、日本における本源的蓄積での「地租改正」(現物納から現金納への転換やその高率さ)の役割などが話題になりました。また、イギリスでの「囲い込み」等による農民排除は地主である土地貴族などが行なったのか借地農業者が行なったのか、という質問が出ました。これには第1期と第2期とでは違うのでないかという意見が参加者から出ました。詳しくは今回の第2節のなかで触れられていますが、ざっと見てみ...