26年4月用・別紙
【別紙】 ・Tさんへ いつも質問をしていただき、ありがとうございます。疑問、質問こそ理解の糸口ですので。 前回のなぜ価値が労働時間であるのかという質問の件、いわゆる労働価値説の根本にかかわる問題で、説明が少し長くなりますのでメールさせてもらいます。必ずしもTさんの問題意識に沿っているかどうかは分かりませんが、私なりの説明です。 商品は「なぜ」その使用価値の他に価値をもつのか? という形で説明してみます。 商品はさまざまな種類の “質”の異なる使用価値(有用性)を持っており、それぞれの使用価値が違うからこそ交換され、社会的分業の一環をなすことになります。と同時にそれらは1着のシャツ、1キロの米等々、一定の“量”をもっています。そして商品の種類が違えば、その生産のために必要な労働量も違ってきますが、同様に、生産される商品の量が違っても必要な労働量は違ってきます(当たり前ですが)。 たとえば私たちが1週間生活するにあたって、衣料、食料など 10種類の生活資料 が必要で、それらの生産には それぞれ1、2、3、~ 9、10時間 を必要するとします。そうすると生活資料の生産のために必要な労働量は総計55時間ということになります。つまり これらの生活資料を自給自足で賄うとすれば、私たちは1週間つまり24 ×7=168時間の生活時間のうち、約1/3の55時間を種々の生産活動だけのために費やさねばならない ということになります。 第1章第4節でマルクスは、「どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった」 (全集版、 P97 ) と述べています。たしかに “人は食うためにのみ生きるにあらず”ではありますが、むろん生活資料がなければ人は生きてはいけません。ところが、 労働が分業の下で個別化・専業化されることで人がいわば “部分人間化”してしまい、さらに人ではなくて“カネ”が労働を媒介するというこの商品社会のなかにいる人間だけは、種々の生活資料を得るためには種々の労働が必要である こと、そして 種々の労働にはそれぞれ適当な量の労働が配分されなければならない ということ、この二つの “当たり前”のことを “忘れてしまう”ことができる のです( “カネさえあれば”とばかりに)。 むろん商品社会は自給...