読む会だより25年11月用

 

「読む会」だより(211月用) 文責IZ

 

10月の議論など)

 

10月の「読む会」は19日に開催されました。(なお、12月は会場の都合により14日、第2日曜日の開催になります。)

(前月の議論)のところでは、参加者からたよりにある剰余価値率約100%というのは余りに大まかすぎる、昔の試算だが1980年の約97%が00年に116%という数字があり、これを踏まえると今は大体140%ぐらいでないか、むろん生産的労働者に限ればずっと大きな数字になるだろうが、と発言がありました。

また今回現代資本主義の無政府性についての資料を出すと言いましたが、1回の中にあまり詰込み過ぎになるのは良くないと反省して、別の機会にさせてもらいます。資本主義の“進化”(組織化の進展)といっても、生産が全面的な形で意識的・社会的に組織されない限り(これは賃金による分配から労働時間による分配への転換でもあります)、結局は賃労働からは切り放された資本の集積と集中(独占)に帰着するということと思われます。

(説明)の部分にはとくに質問、意見は出ませんでしたが、最後に参加者からどうして物価は上がるのか、という質問が出ました。チューターは、現代の管理通貨制度(流通から金貨幣を追い出した)が問題ではないかと答えましたが、舌足らずでしたので少し説明しておきます。

物価すなわち商品の価格の変動には大きく三つの要因があると思われます。第一は、商品の「価値」自体の変動です。すなわちその商品の生産に必要な社会的労働量が増えれば、その貨幣・金の量での表示である「価格」もそれに比例して上昇します。逆にかつて日本の電化製品などがそうであったように、生産力が上昇して商品の価値が低下すれば、それに伴って価格も低下することになります。第二は、商品の価値を表示する貨幣・金の側の価値の変動です。この場合、貨幣・金の価値がすなわちその生産のための労働量によって他の商品の価値量を測る基準となる価値量が変動すれば、その金量によって測られる他の商品の価値の大きさはそれと逆比例して変動します。つまり、金の価値が低下すれば、その低下した価値で測られる他商品の価値と価格は上昇します(たとえば以前は金1グラムが1000労働時間を表示していたのが、いまでは半分の500労働時間しか表示しなくなれば、1000労働時間を表示するためには金2グラムが必要となります。そこで商品の価値は2倍の量の貨幣・金で、つまり2倍の価格で表示されることになります)。そして第三に、商品の価値と貨幣の価値とにとっては外部的な要因、すなわち為替その他の流通上の要因ですが、ここではとりあえず無視させてもらいます。

そして、この第二の貨幣・金の価値の変動にはさらに現代的な要因が、「通貨」すなわち価値章標である中央銀行券(信用貨幣)による金貨幣の代用という問題があります。紙幣にせよ信用貨幣にせよそれらは実際にはいわゆる“紙切れ”であってそれ自身の価値を持ちませんが、それが金貨幣を代表する限りでは、「通貨」としてすなわち流通手段として通用することになります。そしてこの場合、価値章標が表示する貨幣・金の量は、それが流通手段として必要な総量を越えれば越えるだけその分だけその個々の価値章標が代表する金量は小さくなります。言い換えれば個々の商品の「価格」はより多額の価値章標で示されることになります。これがいわゆるインフレであり、それは個々の商品ではなくて物価の全般的な騰貴として現われます

現在の物価高は、商品価値の変動というよりも流通必要量を越える価値章標の存在に基礎を置いた、インフレの顕在化であろう(直接に流通に出ずに日銀の国債保有や企業留保の形で間接的に作用するとしても)ということです。ここでは省きますが、もちろん円安による輸入商品の価格の高騰という要因も大きく作用しているでしょう。しかしこうした為替の変動もまた実需の変動というよりも、管理通貨制度が流通から金貨幣を追い出すことによって、“カネ余り”と投機を助長しているからと思われます(国家財政への寄生を不可欠とする現代資本主義は、もはや金本位制度に戻ることは不可能ですが)。

 

説明 第22章 「剰余価値の資本への転化」の3回目(第4節)

第4節 資本と収入とへの剰余価値の分割比率とは別に蓄積の規模を規定する諸事情

労働力の搾取度──労働の生産力──充用される資本と消費される資本との差 額の増大──前貸資本の大きさ

 

今回は“復習”的な要素も多いので、見出し以外では補足説明をできるだけ省くことにします。これまで見逃してきたような疑問点を質問として出してもらえることを期待します。

 

. 第3節では剰余価値の大きさを与えられたものとして、蓄積される資本の大きさが追加資本と収入の分割比率として考察された。第4節では資本と収入との分割割合を与えられたものとして、蓄積される資本の大きさが考察される。ここでは剰余価値の大きさを規定する全ての事情が作用するが、その特徴的な例が示される)

 

・「剰余価値が資本と収入とに分かれる割合を与えられたものとして前提すれば、蓄積される資本の大きさは、明らかに剰余価値の絶対量によって定まる。@

80%が資本化され20%が食ってしまわれると仮定すれば、蓄積される資本は、総剰余価値が3000ポンドだったか1500ポンドだったかによって、2400ポンドになるか、または1200ポンドになるであろう。だから、蓄積の大きさの規定では、剰余価値量を規定する全ての事情が一緒に働くわけである。@

我々はこれらの事情をここでもう一度取りまとめてみる、といっても、ただそれらが蓄積に関連して新しい観点を与えるかぎりでのことであるが。」(全集版、781)

 

 

. 労賃のその価値以下への引き下げは、一定の限界内で資本の蓄積財源に転化されうるがゆえに、資本の恒常的な傾向である

 

・「剰余価値の生産に関する諸篇<3から6篇>では、どこでも、労賃は少なくとも労働力の価値に等しいということが前提されていた。とはいえ、実際の運動では無理やりに労賃をこの価値よりも下に引き下げることが余りにも重要な役割を演じているので、我々もしばらくこの点に留まらざるを得ない。この<労働力の価値以下への労賃の>引き下げは、事実上、ある限界の中で、労働者の必要消費財源を資本の蓄積財源に転化させるのである

だが、もし労働者が空気だけで生きていられるものならば<労働力が価値=必要労働量を持たないならば>、どんな価格でも彼らは買われないであろう。だから、労働者がタダだということは、数学上の意味での極限であって、ますますそれに近づくことはできても、決してそれに到達することはできないのである。彼らをこの虚無的な立場に押し下げることは、資本の恒常的な傾向である……

今日、労働者の必要消費財源の直接的略奪が、剰余価値の、したがってまた資本の蓄積財源の形成の上でどんな役割を演じているかは、例えば、いわゆる家内労働(第13章第8節dを見よ)によって示された。そのほかの事実も本篇<「資本の蓄積過程」、とりわけ24章の「本源的蓄積」の部分>の叙述の進行につれて示される。」(同、781

 

 

. 資本は、労働力と土地(自然)という富の二つの本源的形成者を自らのものとする。資本は、労働力の弾力性を利用してその搾取度を増大することによって、外観上は前貸資本(不変資本と可変資本)の大きさによって画されている限界を越えて、追加的労働を剰余労働部分に加えて蓄積の源泉を拡大する

 

・「どの産業部門でも、不変資本の内の労働手段から成っている部分は、投資の大きさによって決定されている一定の労働者数に対して十分でなけらばならないとはいえ、それは必ずしも使用労働量と同じ割合で増加する必要はない。@

ある工場では100人の労働者が8時間労働で800労働時間を供給するとしよう。もし資本家がこの総計を半分だけ大きくしようと思うならば、彼は50人の新しい労働者を雇えばよい。しかし、その場合には彼は新たな資本を、賃金のためだけではなく、労働手段のためにも前貸ししなければならない。だが、彼は元からの100人の労働者に8時間ではなく12時間労働させてもよいのであって、その場合には前からある労働手段だけで十分であり、ただそれが一層速く傷むだけである。こうして、労働力の一層大きい緊張によって生み出される追加労働は、剰余生産物と剰余価値、つまり蓄積の実体を、不変資本部分の比例的増大なしに、増大させることができるのである

採取産業、例えば鉱山業では、原料は前貸資本の構成部分にはならない。労働対象はここでは過去の労働の生産物ではなく、自然から無償で送られたものである。金属鉱石、鉱物、石炭、石材などがそれである。ここでは不変資本はほとんどただ労働手段だけからなっており<原材料のための費用なし>、この労働手段は<労働強化による>労働量が増加しても(たとえば労働者の昼夜交替)十分間に合うもの<極めてよく耐えうる……岩波文庫版>である。しかし、その他の事情はすべて変わらないとすれば、生産物の量も価値も充用労働に正比例して増加するであろう。はじめて生産が始まった日にそうであったように、ここ<採取産業>では、本源的な生産物<使用価値>形成者であり、したがってまた資本の素材的諸要素の形成者でもある人間と自然とが、協力するのである。<一定の限度内で労働延長や労働強化を許す>労働力の弾力性のおかげで、蓄積<すなわち剰余価値>の領域が、あらかじめ<前貸の>不変資本が拡大されることなしに拡大されてきたのである

農業では、種子や肥料の追加分の前貸なしには、耕地を拡大することができない。しかし、この<労働手段以外の原料や補助手段の>前貸がなされさえすれば、土地の純粋に機械的な耕うんでさえも、生産物の大量増加に奇跡的な作用を及ぼす。こうして、従来と同数の労働者がより多くの労働を行なう<労働時間の延長>ことによって、労働手段の新たな前貸を必要とすることなしに、<土地の>豊度が高められるのである。ここでもまた、新たな資本の介入なしに蓄積<剰余価値>の増大の直接的源泉となるものは、自然に対する人間の直接の働きかけである

最後に、本来の工業では、労働の追加支出は常にそれに対応する原料の追加支出を前提するが、しかし必ずしも労働手段の追加支出は前提しない<労働延長や労働強化によって>。そして、採取産業や農業は製造工業にそれ自身の原料やその労働手段の原料を供給するのだから、前者が追加的資本補給なしで生み出した追加生産物は後者の<蓄積ないし剰余価値>ためにもなるのである

一般的に結論すれば次のようになる。資本は、富の二つの本源的形成者である労働力と土地<自然>とを自分に合体することによって、一つの膨張力を獲得するのであって、これによって資本は、外観上は資本自身の<前貸の>大きさによって画されている限界を越えて、それ自身の蓄積の諸要素を拡大することができるのである。」(同、P786~)

 

 

. 他方、5項6項でも触れるように、資本は科学や技術をも自らに従属させることによって、労働手段や原材料の自然力がもつ無償的利用の範囲を拡大する。つまり社会的労働の生産力上昇がもたらす恩恵をも自らの蓄積と膨張の源泉とする

 

・「資本の蓄積におけるもう一つの重要な要因は、社会的労働の生産性の程度である。

労働の生産力の増大につれて、一定の価値を表わす生産物量、したがってまた与えられた大きさの剰余価値を表わす生産物量は増大する。剰余価値率が不変ならば、または、それが低下しても、労働の生産力が上昇するよりも緩慢にしか低下しない限り、剰余生産物の量は増大する。それゆえ、もし収入と追加資本とへの剰余生産物の分割が元のままならば、資本家の消費は蓄積財源が減少することなしに増加することができる。蓄積財源の比率的な大きさは、消費財源を犠牲にしても増大しうるが、その場合にも資本家は、商品が安くなることによって、以前と同じかまたはもっと多くの享楽手段を自由に処分することができる。@

しかし、労働の生産性の上昇につれて、すでに見たように、労働者の低廉化、したがって剰余価値率の上昇が進むのであり、実質労賃が上がる場合にさえもそうなる。実質労賃は決して労働の生産性に比例しては上がらない。だから同じ可変資本価値がより多くの労働力を動かすのであり、したがってまたより多くの労働を動かすのである@

<他方、生産力の増大とともに>同じ不変資本価値がより多くの生産手段に、すなわちより多くの労働手段や労働材料や補助材料に表わされ、したがってより多くの生産物形成者とともに価値形成者を、または労働吸収者を<つまり資本素材を>供給する。@

それゆえ、追加資本の価値が変わらなければ、またそれが減少してさえも、加速された蓄積が行なわれるのである。再生産の規模が素材的に拡大されるだけではなく、剰余価値の生産が追加資本の価値よりも早く増大するのである。

労働の生産力の発展は、原資本すなわちすでに生産過程にある資本にも反作用する。@

現に機能している不変資本の一部分は、機械類などのような労働手段から成っており、このような労働手段はかなり長い期間を経て初めて消費され、したがって再生産され、または同種の新品と取り替えられる。しかし、毎年これらの労働手段の一部分は死んで行く。つまりその生産的機能の終点に達する。だから、その一部分は、毎年、その周期的再生産の、または同種の新品による代替の、時期に達している。@

もし労働の生産力がこのような労働手段の出生の場所で増大したならば、そしてこの生産力は科学や技術の絶え間ない流れにつれて絶えず発展するのであるが、そういう場合には、一層有効な、またその効率から見れば一層安価な機械や道具や装置などが古いものにとって代わる。<つまり>既存の労働手段にも絶えず細部の変化が生ずるということは別として、古い資本はより生産的な形で再生産される。<労働手段に加えて>不変資本のもう一つの部分である原料や補助材料は、一年の内に絶えず再生産され、農業から生まれる部分はたいていは毎年再生産される。だから、ここでは改良された方法の採用などはすべて追加資本にも前から機能している<既存の>資本にもほとんど同時に作用するのである。@

化学の進歩は、全て、有用な素材の数を増やし、既に知られている素材の利用を多様にし、したがって資本の増大につれてその投下部面を拡大するが、ただそれだけではない。それは、同時に、生産過程と消費過程との排泄物を再生産過程の循環の中に投げ返すことを教え、したがって先立つ資本投下を必要としないで新たな資本素材を創り出す。@

<前述したような>ただ単に労働力の緊張度を高めることによって自然の富の利用を増進することと同様に、科学や技術は、現に機能している資本の与えられた大きさにはかかわりのない資本の膨張力をつくり上げる。@

同時に、科学や技術は、原資本の内の既に更新期に入った部分にも反作用する。<すなわち>原資本は、その新たな形態の中に、その古い形態の背後で行なわれた社会的進歩を無償で取り入れるのである。@

もちろん、このような生産力の発展には、同時に、現に機能している諸資本の部分的な減価が伴う。この減価が競争によって痛切に感ぜられる限り、主な重圧は労働者にかかってくる。すなわち、労働者の搾取を強めることによって、資本家は<生産手段の減価による>損害を埋め合わせようとするのである。」(同、P788~)

 

 

. 労働はそれが発揮される生産過程において、新しい使用価値とともに価値(労働支出)を創造する。しかもその労働はその自然力によって同時に、生産的に消費された生産手段の価値を新たな生産物の必要労働量の一部として移転・保存する。この労働がもつ力は、資本の下では労働そのものの力ではなくてそれが合体される客体的条件である素材的な資本(生産手段)の自己維持力として現われる。この現象は、元来別物である生産物の使用価値とその生産のための必要労働量(価値)とが、生産物の交換(商品生産)という基礎の下では、生産“物”(商品)自身がもつ使用価値と交換価値という二重の性格として表現される結果である

 

・「労働は、労働によって消費される生産手段の価値を生産物に移す。他方、与えられた労働量によって動かされる生産手段の価値<の大きさ>も<その使用価値としての>量も、労働の生産性が上がるのに比例して増大する。だから、同じ労働量はいつでも同量の新価値をその生産物に付け加えるだけだとはいえ、その労働量が同時に生産物に移す古い資本価値は、労働の生産性が高くなるにつれて増大するのである。@

例えば、1人のイギリス人紡績工と1人のシナ人紡績工とが同じ時間数だけ同じ強度で労働するとすれば、両者は1週間に等しい価値を生み出すであろう。この価値は等しいにもかかわらず、強力な自動装置によって労働するイギリス人の週間生産物の価値と、紡ぎ車しかもっていないシナ人の週間生産物の価値との間には、非常に大きな差がある。シナ人が1ポンドの綿花を紡ぐのと同じ時間で、イギリス人は何百ポンドもの綿花を紡ぐ。<綿花がもっていた>シナ人のそれよりも何百倍も大きい額の古い価値が、イギリス人の生産物の価値を膨らますのであって、この生産物<大量の綿糸>の中にそれだけの<大量の綿花の>古い価値が新たな有用形態<大量の綿糸>で保持され、このようにして<既存価値としての機械は>繰り返し資本として機能できるのである……もちろん、機械の形で対象化されている労働は直接には一人の人間も地中から呼び出しはしなかったが、しかし、それは、少数の労働者が比較的僅かな生きている労働を付け加えることによって、ただ羊毛を生産的に消費してそれに新価値を付け加えるだけではなく、糸などの形で羊毛の元の価値をも維持するということを、可能にしたのである。また同時に、それ<機械に対象化された労働>は羊毛の拡大再生産のための手段と刺激とを与えたのである。@

新価値を創造しながら元の価値を維持するということは、生きている労働の天資である。だから、労働は、その生産手段の効果や規模や価値の増大につれて、したがって労働の生産力の発展に伴う蓄積につれて、絶えず膨張する資本価値を常に新たな<生産物の>形態で維持し不滅にするのである。@

このような労働の自然力は、労働が合体されている資本<客体条件>の自己維持力として現われるのであって、それは、ちょうど、労働の社会的生産力が資本の属性として現われるようなものであり、また資本家による剰余労働の不断の取得が資本の不断の自己増殖として現われるようなものである。労働の全ての力が資本の力として映し出されるのであって、ちょうど商品の全ての価値形態が貨幣の形態として映し出されるようなものである。」(同、P790~)

 

 

. 資本が増大するにつれて、充用された資本と消費された資本との差も増大する。労働手段が使用価値としては全体として充用されながらも価値(支出労働量)としては一部分ずつしか消費されない程度に応じて、労働手段は自然力と同様の無償の役立ちをする。生産手段の価値を生産物に保存するという労働がもつ自然力を、ブルジョアはその客体である労働手段の力と見間違える

 

・「資本が増大するのにつれて、充用された資本と消費された資本との差も増大する。言い換えれば、建物とか機械とか排水管とか役畜とか各種の装置とかいうような労働手段の価値量も素材量も増大するのであるが、これらの労働手段は、長短の期間にわたって、たえず繰り返される生産過程で、そのもの全体として機能し、一定の有用効果の達成に役立つのに、他方、それはただ徐々に損耗していくだけであり、したがってその価値を少しずつ失って行き、したがってまたその価値をただ少しずつ生産物に移していくだけである。これらの労働手段が生産物に価値を付け加えることなしに生産物<使用価値>形成者として役立つ程度に応じて、つまり全体として充用されながら一部分ずつしか消費されない程度に応じて、それらは、前にも述べたように、水や蒸気や空気や電気などのような自然力と同じ無償の役立ちをするのである。@

このような、過去の労働が生きている労働に捕まえられて活気づけられるときに行なう無償の役立ちは、蓄積の規模が大きくなるにつれて蓄積されて行くのである

過去の労働は常に資本に扮装するので、すなわちAやBやCなどの<過去の労働者の>労働の受動態<すなわち過去の労働の重み>は非労働者Xの能動態<すなわち資本家の資産>に扮装するので<つまり過去の労働が、生きた労働の天資によって活気づけられるときに行なう無償の役立ちが、資本素材である労働手段自身の天資であるかに見えるので>、ブルジョアや経済学者たちは口を極めて過去の労働の<つまり労働の客体条件の資本としての存在の>功績を称賛するのであって、@

この<過去の>労働<から成り立つ資本>は、スコットランドの天才マカロックによれば、固有の報酬(利子や利潤)を受けるべきだということにさえなるのである。つまり、生きている労働過程で生産手段の形で協力する過去の労働の重みがますます大きくなるということは、この労働を過去に不払労働として行った労働者自身から疎外されたその姿<他人の所有物としての労働の客体条件>、すなわち資本というその姿のおかげだと言われるのである。@

資本主義的生産の実際的当事者やそのイデオロギー的代弁者が、生産手段を<労働力を搾取する資本という>今日それに付着している敵対的な社会的な仮面から離して考えることができないのは、ちょうど、奴隷所有者が労働者そのものを奴隷というその性格から切り離して考えることができないようなものである。(同、P793~)

 

 

. 前貸資本の増大による生産規模の拡大は、資本によるより一層の剰余価値の取得とその蓄積の可能性を切り拓く

 

・「労働力の搾取度を与えられたものとすれば、剰余価値の量は、同時に搾取される労働者の数によって規定されており、また、この労働者数は、色々に違った割合でではあるが、資本の大きさに対応している。だから、蓄積の連続によって資本が増大すればするほど、消費財源と蓄積財源とに分かれる価値総額もますます増大するのである。それゆえ、資本家はますます贅沢に暮らしながら同時にますます多く「節欲する」<つまり蓄積する>ことができるのである。そして最後に、前貸資本の増大につれて生産規模が拡大されればされるほど、<労働力の弾力性の利用可能性や科学や技術による社会的生産力の発展の可能性など>生産の全てのバネがますます精力的に働くのである(同、P794)

 

 

 

 

 

最後になりますが21章や22章のような社会的な再生産の考察に当たっては、個別資本の観点を捨てるとともに、単年度的に見れば過程の結果であるものが継続的に見れば過程の前提として存在しているということが重要に思われます。(第1節のはじめから4番目の以降の数段落での指摘にあるように)。たとえばそこではこう指摘されています。

しかし、これらの商品は、市場にやってくる前に既に年間総生産物の内に存在していたのである。すなわち、個別資本の総額または社会的総資本がその年のうちに転化して行くところの、そして各個の資本家はただその一可除部分を手にしているにすぎないところの、各種の対象の総量の内に存在していたのである。……だから、年間総生産物がどのように使用されうるかは、総生産物そのものの構成によって定まるのであって、決して流通によって定まるのではないのである

まず第一に、年間生産は、その年のうちに消費される物的資本成分を補填するべき全ての対象(使用価値)を供給しなければならない。これを引き去った後には、純生産物または剰余生産物が残り、それには剰余価値が含まれている。……」(全集版、P756)

 

 

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