読む会だより26年5月用
「読む会」だより(26年5月用) 文責IZ
(4月の議論など)
4月の「読む会」は17日に開催されました。時間延長の件は、2時間を越えると集中力がなくなるという意見が多く出されたために当面は従来通りで続けることになりました。たよりを早めに出す、メールなどであらかじめ質問を出していただく、などで効率的に進行するようにします(5分前には終了)。なお、時間延長を要望する方もありましたので、個別的対応になりますが『入門』なり何なりを検討する場を設けれないか考えています。
(前月の議論)の所では、価値について参加者からプリントが出されました。効用価値説や希少性理論は、使用価値と価値との区別や、価値と価格の区別を混同していること、また生産性向上による生産物の単位当たり価値量の低減は、特別剰余価値の取得(個別的価値と社会的価値との差異)などによる剰余価値取得の増大と矛盾するものではない、と説明がありました。ここでは特別剰余価値を持ち出さなくても、生産力がどのように変化しようとも(つまり1単位当たりの価値量が変化しても)、1労働日(たとえば10時間)が付け加える価値量はやはり10時間分なのだから、労働日の延長や労働者数の増大があれば、そこから必要労働時間を差し引いた剰余価値量は増大しうると確認されればよいのではないか、という意見が出ました(生産力の増大が、労働時間の短縮による人間活動の豊富さにつながらない処に、資本主義における矛盾が凝縮されているように思われます)。
【別紙】については細かい説明を省きましたので、「人間労働」について書き添えておきます(なお労働を「価値」として取得する意味については、今回の第1項目も参考ください)。
最後のロビンソンの例で、「彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが……それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろの仕方でしかない」と指摘されています。このロビンソン個人の例を社会で暮らす多数の人々の分業の総体に置き換えてみれば、人々の生活を成り立たすという社会的機能を果たすうえでの同等な人間労働、“無差別で抽象的な”人間労働という意味が受け取りやすいのではないかと思います。
第1章2節では、「裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である」(全集版、P59~)とあり、また「全ての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成する」(同、P63)とあります。しかしながらこれらの指摘の前提として、「生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである」(同、P59)と言われていることを忘れてはなりません。発展した社会的分業の結果としての「商品」生産、これこそまさに個々独自な労働の有用的性格に、それとは分離された“社会的な性格”を、つまり分業に基づく社会での総労働の諸部分としての同等な性格(労働の価値性格)を“付け加える”のです(生理学的にも“同等”なのだから)。
さらにロビンソンの例では、「そのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれている」とか、「ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物との間のいっさいの関係」とありますが、これが価値の内容すなわち総生産物に対する総労働の配分の関係ということです。少し後にこの労働の配分とそこでの価値(労働時間)の役割とについて、マルクス自身の説明があります。
「最後に気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働の全ての規定が再現するのであるが、但し、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンの全ての生産物は、ただ彼一人の個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らの間に分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。@
ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手に入る生活手段の分け前は各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望に対するいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費され得る部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物に対して持つ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」(第1章第4節、全集版P105)。
旧い封建的な関係が分解して私的な所有がより発展するとともに、人々の生活は自然発生的な社会的分業(つまり商品生産)に基礎を置くようになります。諸個人は、彼らの諸欲望を満たすための労働(ならびに生産物の分配)の組織において直接に関係しているのではありません。そうではなくてここでは、相互に独立な私的な労働を基礎にして、その対象化である諸労働生産“物”が相互に「交換」され「商品」になることを通じて、諸個人が市民(商品生産者)社会の一員として組織され社会そのものが形成されるのです。商品に対象化されてはじめて諸労働は社会の総労働として結合され、その一部分となることができ、また同時に生産物の交換比率にしたがって総労働量が配分されてゆくのです(チューターの理解では)。
ここでは諸個人は、その労働をあらかじめ結合した総労働の諸部分として支出するわけではありません。だから、諸個人の労働に代わって人々を結びつける諸商品こそが、彼らの個々独自な労働の有用的性格とは分離された社会的な性格を、つまり分業に基づく社会での総労働の諸部分(凝固した労働時間)としての同等性を、社会的な自然性格=価値性格として受け取るのです。つまり商品交換が示している社会関係の内容である、“社会的労働を行なう限りでの諸個人の労働の同等性”は、諸個人の生産活動である労働からは離れてしまい、彼らの生産活動を媒介する「商品」の同等な価値性格や全ての商品に対する「貨幣」の交換可能性に“変装”するのです。
マルクスはこの点についてこう指摘しています。
「商品生産者の一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的な労働を同等な人間労働として互いに関係させるということにある」(同、P106)。
だからこそ人々がその意識的な活動によって社会的な労働を組織し、欲望に応じた総生産物に対する総労働量の配分(や個人的消費分の分配)を制御するならば、「人々が彼らの労働や労働生産物に対して持つ社会的関係」は「透明で単純」なものとして現われるほかありません。そこでは生産や分配が生産物の「価値」によって媒介される必要などなくなるのですから、長い間人間を支配してきた貨幣や資本の力も雲散霧消してしまうのは明らかです。マルクスはこう述べます。
「ここ<宗教世界>では、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身の間でも人間との間でも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶ……。」(同、P98)
「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的な制御の下に置かれたとき、はじめてその神秘のベールを脱ぎ捨てる」(同、P106)。マルクスの思想とその歴史的展望は明確かつ明快です。
ティータイムには、全学連が政党を組織するという話について質問が出ました。チューターは聞いたことがなかったので、学生運動の限界やいわゆる急進派の運動(“政治”闘争に対する稚拙な理解)について若干説明しました。(中核派系の「全学連」が分裂したグループがそのように主張しているそうです。急進派の運動が既成左翼の階級協調主義への“罰”であるとしても、内ゲバをはじめとする彼らの小ブルジョア的運動は労働者の階級的団結を阻害し続けています。いまだに彼らは学生中心と語ってはその小ブルジョア的性格を自慢し、反帝反スタだの、社会主義国家である中国を日本は“侵略”しようとしているなどと場違いなことを言っているようです。彼らにどんな信用を置くこともできません。)
(説明)の所は、前回も随分と省いた説明となりました。4項は省略しますが、3項の「資本主義的蓄積の一般的法則」(いわゆる窮乏化論)の所はマルクスが力を込めている処であり、またマルクス批判家の反論も多いので、今回再度取り上げます。
前回の(説明)3項の再掲 第23章 第4節 《》部分を追加
(3. 資本主義的蓄積の一般的法則と資本主義的蓄積の敵対的な性格 資本の極での富の蓄積は、同時に対立する賃労働の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積である)
・「社会的な富、現に機能している資本、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。<資本によって>自由に利用されうる労働力は、資本の膨張力を発展させるのと同じ原因<生産力の増大>によって、発展させられる。つまり、産業予備軍の相対的な大きさは富の諸力と一緒に増大する。しかしまた、この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。@
これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的な法則である。それは、全ての他の法則と同じように、その実現に際しては様々な事情によって変化を加えられるのであるが、このような事情の分析はここではまだされないのである。
労働者に向かって、彼らの数を資本の価値増殖欲求に合わせるようにと説教する経済学の知恵の愚かさが分かるであろう。資本主義的生産・蓄積の機構は、この<労働者の>数を絶えずこの価値増殖欲求に適合させているのである。この適合の最初の言葉は、相対的過剰人口または産業予備軍の創出であり、最後の言葉は、現役労働者のますます増大する層の貧困と受救貧民の死重とである。
ますます増大する生産手段量が、社会的労働の生産性の増進のおかげで、ますますひどく減って行く人力支出によって動かされうるという法則──この法則は、労働力が労働手段を使うのではなくむしろ労働手段が労働者を使うという資本主義的基礎の上では、労働の生産力が高くなればなるほど、労働者が自分たちの雇用手段に加える圧力はそれだけ大きくなり、したがって、労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の<価値を創造する>力を売るということはますます不安定になるということのうちに表わされている。つまり、生産的人口よりも生産手段や労働の生産性の方が速く増大するということは、資本主義的には、逆に労働者人口が常に資本の価値増殖欲求よりも速く増大するということのうちに表わされるのである。
我々は第4篇で相対的剰余価値の生産を分析した時に次のようなことを知った。すなわち、<第一に>資本主義的体制の下では労働の社会的生産力を高くするための方法は全て個々の労働者の犠牲において行われるということ、<第二に>生産の発展のための手段は、全て、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程全体に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼らから疎外するということ、<第三に>これらの<社会的生産力発展の>手段は彼が労働するための諸条件を歪め、労働過程では彼を<資本の>狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を<すべて>労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げ込むということ、これらのことを我々は知ったのである。しかし、剰余価値を生産するための方法は全て同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大は全てまた逆にかの<剰余価値生産の>諸方法の発展のための手段になるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるを得ないということになるのである。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという<資本の労働人口>法則は、……労働者を資本に釘付けする。それ<資本の労働人口法則>は、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極<資本>での富の蓄積は、同時に反対の極<賃労働>での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。……」(同、P839~840、太字は原文)
この資本主義的蓄積の一般的法則は、いわゆる労働者の「窮乏化」説としてブルジョアから批判を受けてきました──労働者階級も分化・多様化して中間層が増大した、極貧層は福祉国家が救済している等々。むろん、労働者階級は失業者だけからなっているものではありません。現役軍のほうは事情によっては高い支払いを受け、わずかながらも金銭的に余裕のある生活を送る場合もあります。しかしほとんどの労働者にとっては、その金銭的“余裕”も「生産」手段を買って資本として機能させうるほどではない(物事には例外が付きものですが)、ということが要点です。資本にとっての問題は、剰余価値を生み出し自らを増殖させるためには生産手段を持たない“無産”の労働者“階級”の維持が不可欠だということなのです。《だから、労働者が購買する生産手段と労働力とを資本としては機能させ得ないという限界内では、資本はその搾取体制の維持の「安全・安定のための費用」(買収費用)を支出して一時的な幻想をもたらすことが可能です。それがいわゆる「修正資本主義」の内容です。》
他方で労働者にとっては、賃労働者としての生活が結局は自らを搾取・支配する鎖(資本)を強くすることに結果する、という点こそが問題です。そして、資本の蓄積の増大に比べれば、労働者の生活の改善は極めて僅かであり、この点から(つまり相対的に)見るならばマルクスの言う通り、「資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるを得ない」し、また「労働の生産力が高くなればなるほど……労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の力を売るということはますます不安定になる」ということは間違いなく一つの法則であり傾向なのです。言うまでもなく、この労働者の生活の矛盾の解決は、生産手段の共同的所有に基づく意識的な生産の組織つまり固定化した社会的分業の廃棄に求めるほかはありません。
相対的過剰人口や受救貧民に陥っている労働者は「福祉」で救われるわけではない、とここで言っておかなければなりません。労働者が要求するのは、そうした人々の労働を可能とする条件でありまた実際に労働を実現する場所なのであって、すなわち労働者としての「協働」ないし「共助」です(労働不能者は別ですが)。「福祉」がそれらを排除するならば、それは労働者階級の死重である相対的過剰人口を維持する役割を果たしているだけなのです。
(説明) 第24章 「いわゆる本源的蓄積」 の1回目
第1節 本源的蓄積の秘密
(1. 本源的蓄積とは、資本主義的生産様式──賃労働の搾取による資本の価値増殖──の結果ではなくてその出発点となる過程である。貨幣や商品が資本へ転化するのは、一方の貨幣や生産手段の所有者が他方の労働力以外には商品を持たない労働者を搾取するからである。この後者の生産手段である土地の所有からの分離過程が、資本の“前史”であり“本源的”蓄積の過程である)
・「どのようにして貨幣が資本に転化され、資本によって剰余価値がつくられ、また剰余価値からより多くの資本がつくられるか<つまり資本主義的蓄積の過程>は、これまで<第4章以降>に見てきたところである。@
ところで資本の蓄積は剰余価値を前提し、剰余価値は資本主義的生産を前提するが、資本主義的生産はまた商品生産者たちの手のなかにかなり大量の資本と労働力とがあることを前提する。だから、この全運動はひとつの悪循環をなして回転するように見えるのであり、われわれがこの悪循環から逃げ出すためには、ただ、資本主義的蓄積に先行する「本源的」蓄積(アダム・スミスのいう「先行的蓄積」)、すなわち資本主義的生産様式<資本の価値増殖のための生産>の結果ではなくその出発点である蓄積を想定するより他はないのである。
貨幣も商品も最初から資本ではないのであって、ちょうど生産手段や生活手段がそうでないのと同じことである。これらのものは資本への転化を必要とする。しかし、この転化そのものは一定の事情のもとでなければ行なわれえないのであって、この事情は要するに次のことに帰着する。すなわち、二つの非常に違った種類の商品所持者が対面し接触しなければならないという事情である。その一方に立つのは、貨幣や生産手段や生活手段の所有者であって、彼らにとっては自分がもっている価値額を他人の労働力の買い入れによって増殖することこそが必要なのである。他方に立つのは、自由な労働者、つまり自分の労働力の売り手であり、したがってまた労働の売り手である。自由な労働者というのは、奴隷や農奴のように彼ら自身が直接に生産手段の一部分であるのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らのものであるのでもなく、彼らはむしろ生産手段から自由であり離れており免れているという二重の意味で、そうなのである。このような商品市場の両極分化とともに、資本主義的生産の基本条件は与えられているのである。資本関係は労働者と労働実現条件の所有との分離を前提する。資本主義的生産がひとたび自分の足で立つようになれば、それはこの分離をただ維持するだけではなく、ますます大きくなる規模でそれを再生産する。だから資本関係を創造する過程<つまり本源的蓄積>は、労働者を自分の労働条件の所有から分離させる過程以外のなにものでもありえないのである。つまり、いわゆる本源的蓄積<剰余価値の資本への転化に基づく資本主義的蓄積とは区別される>は、生産者と生産手段との歴史的分離過程<つまり労働者階級の形成過程>にほかならないのである。それが「本源的」として現われるのは、それが資本の前史をなしており、また資本に対応する生産様式の前史をなしているからである。……」(全集版、P932~934)
資本主義以前の階級社会にあっては、その生産は、支配階級が生産階級である他人の剰余労働を支配し、自らのためのなんらか特定の使用価値を取得することを目的としていました。だからそこでは生産階級が被支配階級として生産手段である土地と結びついていることは、いわば“自然な条件”でした。
しかし資本主義社会ではそうではありません。ここでは生産される使用価値は自ら使用することを目的として生産されるのではなくて、商品として他人の使用価値となるために生産されます。ここでは使用価値そのものではなくて、それを商品として流通させることを通じて、剰余“労働”を他商品に転換可能な「剰余“価値”」として取得し、原資本価値をひたすら増殖させること、これがここでの生産の目的です(使用価値の生産はそのための単なる手段なのです)。そして労働者の必要労働時間以外のすべての生存時間を剰余労働時間として引き出すためには、これまでとは違って、彼らを土地という自然的条件に制約された生産手段から切り離すことが、そしてそのうえで機械や工場といった新たな労働条件に結び付けることが必要だったのです。封建的関係の基礎を打ち壊し、賃労働と資本(資本関係)という新たな関係の一方の主体的な条件を生み出す過程、これが本源的蓄積なのでした。
(2. 本源的蓄積は、封建制の解体のなかで農民の労働条件であり生産手段であった土地を私的に収奪し蓄積してゆく経済外的、暴力的な過程であった)
・「資本主義社会の経済的構造は封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素<生産要素を購入するに足る貨幣の所有者と二重の意味で自由に解放された労働者>を解き放したのである。
直接生産者、労働者は、彼が土地に縛りつけられていて他人の農奴または隷農になっていることをやめてから、はじめて自分の一身を自由に処分することができるようになった。自分の商品の市場が見つかればどこへでもそれをもってゆくという労働力の自由な売り手になるためには、彼はさらに同職組合の支配、すなわちその徒弟・職人規則やじゃまになる労働規定からも解放されていなければならなかった。こうして、生産者たちを賃金労働者に転化させる歴史的運動は、一面では農奴的隷属や同職組合強制からの生産者の解放として現われる。そして、われわれのブルジョア的歴史家たちにとっては、ただこの面だけが存在する。しかし、他面では、この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪いとられ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪いとられてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。そして、このような彼らの収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書き込まれているのである。
産業資本家たち、この新たな主権者たち自身としては、同職組合の手工業親方だけではなく、富の源泉を握っている封建領主をも駆逐しなければならなかった。この面から見れば、彼らの興起は、封建的勢力やその腹立たしい特権にたいする戦勝の成果として、また同職組合やそれが生産の自由な発展と人間による人間の自由な搾取とに加えていた拘束にたいする戦勝の成果として、現われる。しかし、産業の騎士たちが剣の騎士たちを駆逐するということは、ただ自分たちのまったくあずかり知らない諸事件を利用することによってのみ成就された。彼らは、かつてローマの非解放民<奴隷>が自分の保護主の主人になるために用いたのと同じ卑劣な手段によって、成り上がったのである<ニーブール『ローマ史』?、ローマの平民は農民の総体であって、いかなるローマ人も商人または手工業者の生活を営むことは許されなかった>。
賃労働者とともに資本家を生みだす発展の出発点は、労働者の隷属状態だった。そこからの前進はこの隷属の形態変化に、すなわち封建的搾取の資本主義的搾取への転化に、あった。この転化の歩みを理解するためには、それほど遠くさかのぼる必要はない。資本主義的生産の最初の萌芽は、すでに14世紀および15世紀に地中海沿岸のいくつかの都市で散在的に見られるとはいえ、資本主義時代が始まるのは、やっと16世紀からのことである。資本主義時代が出現するところでは、農奴制の廃止はとっくにすんでおり、中世の頂点をなす独立都市の存立もずっと以前から色あせてきているのである。
本源的蓄積の歴史のなかで歴史的に画期的なものといえば、形成されつつある資本家階級のために槓杆として役だつような変革はすべてそうなのであるが、なかでも画期的なものといえば、人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程の基礎をなしている。この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており、この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代も国によって違っている。それが典型的な形をとって現われるのはただイギリスだけであって、それだからこそわれわれもイギリスを例に取るのである。」(同、P934~936)
ブルジョア経済学者たちは本源的蓄積について、「ずっと昔のある時に、一方には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方には怠け者で、あらゆる持ち物をまたそれ以上を使い果たしてしまう屑どもがいた」といった“原罪”から説明しようとします。つまり資本およびその蓄積はいつでも資本家たちの貯蓄や節約の結果であったというのです。
これにたいしてマルクスは、資本主義的蓄積は資本家の貯蓄・節欲といった“美談”から生まれるものではなくて、ただ労働者の不払労働の搾取から生まれることを立証してきました。そしてそのうえで、ここでは本源的蓄積は、すでに出来上がった労働者階級からの支払労働を越える不払労働の搾取という“隠蔽された”収奪として行なわれたものではなく、封建的関係の解体のなかで農民をその生産手段から引き離してプロレタリア化するための、“むき出しの暴力的な”土地の収奪として行われたということを明らかにして、経済学者を批判したのです。
だからこそ第1節は「本源的蓄積の“秘密”」というタイトルになっています。
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