読む会だより25年12月用
「読む会」だより(25年12月用) 文責IZ
(11月の議論など)
11月の「読む会」は新しい参加者を迎えて16日に開催されました。
(前月の議論)のところでは、どうして物価は上がるのかという補足に関連して幾つかの質問が出ました。
一つは物価高は賃上げと関係しているのかというものでした(今の物価高をインフレとして説明できるのか、というより根本的な質問だったのかもしれません)。これに対しては参加者から、賃金は基本的に労働力の価値であり、賃上げは物価高への“後追い”でしかない。インフレと賃上げとは別の問題ではないか、という意見が出ました。
チューターは、70年代にドルショック、オイルショックの後で“狂乱物価”と言われた時代があったが、同じ点もあれば違った点もあるのでないかと答えました。同じ点といえば、当時自分の基本給が求人票の時点では4万円弱ほどの予定であったが、半年たって就職した際には5万円弱、さらに3年ばかりで2倍ほど(年率で30%強?)になったが、やはり物価高の後追いでしかなかった(アパート代は相対的に安くなったが)。しかし“一億総中流”と言われた当時は、いわゆるデノミネーション(価格名称の変更)のようにほぼすべての国民がその影響を受けたが、金融手段の発達した今はそうではない。インフレが労働者大衆への犠牲の転化の手段としてますます目的化され始めているのではないか、と答えました。
もう一つは、「円安による輸入商品の価格の高騰」がインフレの“要因”とされているがどういう作用でなのか、という質問でした。チューターは、ここではそれがインフレ(価値章標の乱発による価格上昇)が顕在化する“契機”になっているという意味で述べている。具体的にどういう作用でそうなって行くのかは、不勉強でまだ説明できないと答えました。
なお質問は出ませんでしたが、(前月の議論)の3段目で「賃金による分配」と触れました。これは第6篇「労賃」などで詳しく述べられてきたように、資本主義における分配は、労働者の支出した全労働量に対してではなくて、「労働力の価値」に対してのみの、つまり労働者の生活の再生産に不可欠な必要労働量に対してのみの支払いだ(等価な貨幣での)という意味です。この資本の下での分配は、等価交換を基礎とする商品生産一般と違って、直接生産者の必要労働量を越える部分が、剰余価値として労働力を“買った”資本のものとなるという分配方式です。これに対して「労働時間による分配」とは、労働不能者などへ“控除”を差し引けば、労働者が支出した労働量に応じて社会的生産物の分配が行われるという方式です(むろん、分配方式が変わるためには生産関係そのものが変革されねばなりませんが)。この労働時間による分配方式は、戦時経済(統制的・配給的経済)等で、貨幣支払に代わって行なわれる生産物での直接的支払い(資本による剰余価値の取得が含まれている)とはまったく別のものです。
(説明)の所では、チューターから第5項の見出しについて、後半の「この現象は……」以降の部分は自分の問題意識で書いてしまった。本文と離れてよくなかったので、次回に変更したいと発言がありました。この部分は「3項のような労働力の緊張度を高める方法だけではなくて、資本は、生産力の増大による原材料からの価値移転量の増大をも自らの蓄積源泉とする」というように変更願います。
6項では、労働手段の「無償の役立ち」について、それは労働者の働きかけによってもたらされるものが労働手段の力と見なされるということか、という質問が出ました。チューターは第6章でのマルクスの言説(別記)を念頭に、例えば優秀な機械があったとしてもそれが労働者によって実際に使われることなく錆びついてしまえば無益だろう。過去の労働が対象化されている労働手段の価値は、労働者の生きた労働によってはじめて生産物に移転・保存されるほかはないが、この生きた労働の天資=「無償の役立ち」は資本家にとっては支払われたものとして目に見えることはない、と説明しました。しかしここで言われている「無償の役立ち」とは、過去の労働の対象化である「労働手段」が、いわば“労働の社会力”として、自然力と同じように、新たな労働支出なしに機能する(生産手段が使用価値としては全体として機能しながらも、価値としては部分的にしか補填される必要がないないのだから)という意味であって、第6章にある「労働の無償の贈り物」とは同じ事柄ではありませんでした。というのは、すぐ後の部分ではこう言われているからです。
マカロックによれば生産力の増大によって、「生きている労働過程で生産手段の形で<労働に>協力する過去の労働の重みがますます大きくなるということは、この労働を過去に不払労働として行った労働者自身から疎外されたその姿、すなわち資本というその<対立的な>姿のおかげだと言われるのである」。資本の力ないし生産手段の力のように見えるものは、“物”の力ではなくて、ただ生産手段の占有という社会関係から生じているものにすぎません。
7項は時間切れで次回送りとなりました。
【別記】第6章「不変資本と可変資本」より。
「生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それ<生産手段の価値>は、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行われる。@
労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働を付け加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態で付け加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態で付け加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。@
だから、価値を付け加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとっては何の費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大な利益をもたらすのである。景気の良いあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えない。労働過程の無理やりの中断、すなわち恐慌は、彼にこれを痛切に感じさせる。」(全集版、P270)
(説明) 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」の1回目(第1節)
第1節 資本構成の不変な場合に蓄積に伴う労働力需要の増加
第23章は2回ぐらいで終えたいと言いましたが、1巻のまとめでもありページ数も多いために3回はかかる見込みです。ご容赦ください。
(1. 23章では資本の蓄積・増大が労働者に与える影響が考察される。2節で触れられる産業予備軍<失業者群>の理解のためには、資本の有機的構成<ないし単に資本の構成と呼ばれる>──資本の技術的・素材的構成によって規定される限りでの価値構成──が問題となる。一国の資本の構成は、全ての生産部門の平均構成の総平均で示される)
・「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う。この研究での最も重要な要因は資本の構成であり、またそれが蓄積過程の進行途上で受ける色々な変化である。@
資本の構成<組成……岩波文庫版>は、二重の意味に解されなければならない。@
価値の面から見れば、それ<資本の価値構成>は、資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値すなわち労賃の総額とに分かれる割合によって、規定される。@
<それを>生産過程で機能する素材の面から見れば、それぞれの資本は生産手段と生きている労働力とに分かれる。この構成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との割合によって、規定される。@
私は第一の構成を資本の価値構成と呼び、第二の構成を資本の技術的構成と呼ぶことにする。二つの構成の間には密接な相互関係がある。この<二つの構成の相互>関係を表わすために、私は資本の価値構成を、それが資本の技術的構成によって規定されその諸変化を反映する限りで、資本の有機的構成と呼ぶことにする。簡単に資本の構成という場合には、いつでも資本の有機的構成を意味するものと考えられるべきである。@
ある一定の生産部門に投ぜられている多数の個別資本は、多かれ少なかれ互いに違った<有機的>構成を持っている。これらの資本の個別的構成の平均は、我々にこの生産部門の総資本の構成を与える。最後に、全ての生産部門の平均構成の総平均は、我々に一国の社会的資本の構成を与え、そして、以下では結局はただこれだけが問題にされるのである。」(全集版、P799~)
資本の価値構成(不変資本と可変資本との比率)は、労働の生産力の変化に伴って、つまりその技術的・素材的構成(諸生産手段と配分される労働者数)の変化に伴って変化します(必ずしも後者の変化に比例するわけではないにせよ)。こうした両者の関連を前提した価値構成のことを資本の有機的構成、あるいは単に資本の構成と呼びます。それは次節で触れられるように、資本の蓄積・増大の過程の中では、可変資本部分が不変部分に比較して相対的な減少が生じるために──つまりその有機的構成が変化するために──、単なる労働者数の増加に結果するのではなくて、その中に産業予備軍=失業者部分を生み出すという結果をもたらします。
なお冒頭のほうで資本の構成を「価値の面から見れば」とあります。再生産の観点からすればそれは、再生産において支出・補填されねばならない労働量から見ればということと思われます。
(2. 第1節では資本の構成の変化を伴うことのない、資本のたんなる量的増大による影響がまず考察される。この場合には、資本の蓄積・増大につれて労働に対する需要も増大するので、資本の蓄積は労働者階級の増加を意味する。この場合が、労働者にとって最も有利な蓄積条件である)
・「資本の増大は、その可変部分、すなわち労働力に転換される成分<構成部分……岩波文庫版>の増大を含んでいる。追加資本に転化される剰余価値の一部分は、つねに可変資本すなわち追加労働財源<素材的には生活手段>に再転化されなければならない。@
他の不変な諸事情と一緒に資本の構成も不変だということ、すなわち一定量の生産手段または不変資本が動かされるためには常に同量の労働力が必要だということを前提すれば、明らかに、労働に対する需要と労働者の生計財源とは、資本の増大に比例して増大し、資本が急速に増大すればそれだけ急速に増大する。@
資本は年々剰余価値を生産し、剰余価値の一部分は年々原資本に付け加えられるのだから、また、この増加分そのものも、既に機能している資本が大きくなっていくのにつれて年々増大するのだから、そして最後に特別に致富欲を刺激するもの、例えば新たに生じた社会的欲望による新たな市場や新たな投資部面の開発などが現われれば、蓄積の規模は、ただ資本と収入とへの剰余価値または剰余生産物の分割を変えるだけのことによって、にわかに拡大され得るのだから、@
資本の蓄積欲望が労働力または労働者数の増大を上回り、労働者に対する需要がその供給を上回り、したがって労賃が上がるということがあり得る。むしろ、前記の前提がそのまま存続する場合には、結局はそうなるほかはない。毎年、前年よりも多くの労働者が使用されるのだから、遅かれ早かれいつかは、蓄積の欲望が通常の労働供給を上回り始める点が、つまり賃金上昇の始まる点が、現われざるを得ないのである。このことについての嘆きがイギリスでは、15世紀全体を通じて、また18世紀の前半にも、大きく聞こえてくる。@
とはいえ、賃金労働者が維持され増殖されるための事情が多かれ少なかれ有利になるということは、<労働力の搾取に基づく剰余価値の生産という>資本主義的生産の根本性格を少しも変えるものではない。@
単純再生産が資本関係そのものを、一方に資本家、他方に賃金労働者を、絶えず再生産するように、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模での資本関係を、<つまり>一方の極により多くの資本かまたはより大きな資本家を、他方の極により多くの賃金労働者を、再生産する。@
労働力は絶えず資本に価値増殖手段として合体されなければならず、資本から離れることができず、資本への労働力の隷属は、ただ労働力が売られていく個々の資本家が入れ替わることによって隠されているだけで、このような労働力の再生産は、事実上、資本そのものの再生産の一契機をなしているのである。つまり、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである。」(同、P800~)
ここで注意すべき事柄は、後に(3、4項)で触れられているように、蓄積に伴う資本の大きさと労働者人口(総労賃によってその大きさは制限される)とは、相互に独立に運動するものではないということです。言い換えれば、労働需給(したがってまた労賃の変動)は、資本蓄積の運動状態によって規定されそれに従属しているのであって、労働需給が労働者人口そのものに基づいて変動するものではないということです。
(3. 資本の構成の変化を伴うことのない、資本のたんなる量的増大では、労働者の資本への従属は外延的に拡大するのみである。労働力商品の購買の目的は、個人的な欲望の満足ではなくて、生産的労働による剰余価値を含んだ商品の生産であり、資本価値の増殖であり、またこの関係の再生産である。資本の蓄積運動こそが労賃の大きさを規定し限界づけるのであって、その逆ではない)
・「これまで想定してきたような、労働者にとって最も有利な蓄積条件の下では、資本への彼らの従属関係は、耐えられないこともない形態、またはイーデンの言う「安楽で自由な」形態をまとっている。それは、資本の増大につれて一層強度を増す<内包的になる……岩波文庫版>のではなく、ただ外に広がる<外延的になる……岩波文庫版>だけである。すなわち、資本の搾取・支配部面が、ただ資本そのものの広がりと資本の臣下<隷民……岩波文庫版>の数とにつれて拡大されるだけである。@
労働者たち自身の<生み出す、>ますます大きくなり、そしてますます多く追加資本に転化するようになる剰余生産物の内から、<賃金上昇によって>以前よりも大きい部分が支払手段の形で彼らの手に還流してくるので、彼らは自分たちの享楽の範囲を広げ、彼らの衣服や家具などの消費財源をもっと充実させ、少額の準備金を形成できるようになる。しかし、衣服や食物や取り扱いがよくなり特有財産<古代ローマの自由人が奴隷に譲渡可能な財産部分>が増えても、それは、奴隷の従属関係や搾取を廃止しないのと同じように、賃金労働者の従属関係や搾取をも廃止しはしない。資本の蓄積につれて労働の価格が上がるということが実際に意味しているのは、ただ、既に賃金労働者が自分で鍛え上げた金の鎖の太さと重みとがその張りの緩みを許すということでしかないのである。@
この題目についての論争では、大抵の場合に、肝心な点が、すなわち資本主義的生産の<奴隷制的な生産形態との>種差〔一つの種を他の種から区別する特有な性質〕が、見落とされてきた。資本主義的生産で労働力が買われるのは、その役立ちやその生産物によって買い手の個人的な欲望を満たすためではない。買い手の目的は、自分の資本の増殖であり、彼が支払うよりも多くの労働を含んでいる商品の生産、つまり、彼にとって少しも費用のかからないのに商品の販売によって実現される価値部分を含んでいる商品の生産である。剰余価値の生産、すなわち利殖は、この生産様式の絶対的法則である。労働力が生産手段を資本<原価値の一部分>として維持し、<同時に>自分自身の価値を資本<可変資本>として再生産し、<その>不払労働において追加資本の源泉を与えるかぎりでのみ、ただそその限りでのみ、労働力は売れるのである。@
だから、労働力の販売の条件の内には、労働者にとって有利であろうと不利であろうと、労働力の不断の再販売の必然性と、資本としての富の不断の拡大再生産とが含まれているのである。@
労賃は、すでに見たように、その性質上、つねに労働者の側からの一定量の不払労働の提供を条件とする。労働の価格の低下を伴う労賃の上昇などは全く別としても、労賃の増加は、せいぜい、労働者がしなければならない不払労働の量的な減少を意味するだけである。この<不払労働の>減少によって<賃金奴隷>制度そのものが脅かされるような点までこの<不払労働の>減少が続くことは決してあり得ないのである。@
@
労賃の率についての激しい衝突、そして大体においてそのような衝突では雇い主がやはり名人だということは既にアダム・スミスが明らかにしたことでもあるが、今この衝突を別とすれば、資本の蓄積から生ずる労働の価格の上昇は次の二つの場合のどちらかに当たるものである。
その一つは、労働の価格の上昇が蓄積の進行を妨げないのでその上昇が続くという場合である。これは少しも不思議なことではない。……
この場合<蓄積が進行する場合>には、不払労働の減少も決して資本の支配の拡大を妨げないということは明白である。@
──または、これがもう一つの場合であるが、労働の価格の上昇の結果、利得の刺激が鈍くなるので、蓄積が衰える<場合である>。<この場合>蓄積は減少する。しかし、その減少につれて、その減少の原因はなくなる。すなわち、資本と搾取可能な労働力との間の不均衡はなくなる。つまり資本主義的生産過程の機構は、自分が一時的に作りだす障害を自分で除くのである。<このため>労働の価格は、再び、資本の増殖欲求に適合する水準まで下がる。この水準が、賃金上昇の始まる前に標準的と認められていた水準よりも低いか、高いか、それとも同じかは別として、とにかく労働の価格は下がる。@
要するに、第一の<蓄積が進行する>場合には、労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の減少が資本を過剰にするのではなく、反対に、<蓄積による>資本の増加が搾取可能な労働力を不足にするのである。第二の<蓄積が衰える>場合には、労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の増進が資本を不足にするのではなく、反対に、資本の<蓄積の>減少が搾取可能な労働力またはむしろその価格を過剰にするのである。@
このような資本の蓄積における<その増減の程度や速度という>絶対的諸運動が、搾取可能な労働力の量における<その価格の>相対的諸運動として反映するのであり、したがって、労働力の量そのものの運動に起因するように見えるのである。数学的表現を用いて言えば、蓄積の大きさは独立変数であり賃金の大きさは従属変数であって、その逆ではないのである。……」(同、P807~)
述べられているように、労働需給と労賃は資本の蓄積の増加速度の緩慢によって規定され従属しています。しかし現象的には反対に、つまり資本蓄積の運動とは無関係に単なる労働市場における需要と供給の関係によって労賃が規定されているかのように見えます。こうした観点は、資本主義的生産の目的は、何らかの使用価値の生産そのものではなくて、それを媒介にした剰余価値の生産(とそれによる資本の価値増殖)であることを見逃しているように思われます。
(4. 人口の増加は常に生活手段の増加を凌駕するがゆえに人口は“自然的に”調整されるという“人口論”の根底は、資本関係の不断の再生産に脅威を与えるような搾取度の低下や、労賃の上昇を排除し限界づけている、資本主義的な蓄積法則にある。労働者人口を制約する労賃の変動は、追加資本に転化される不払労働の大きさとそのために必要とされる支払労働との関係に規定されている)
・「いわゆる『自然的人口法則』の根底にある資本主義的生産の法則は、簡単に次のことに帰着する。@
資本蓄積と賃金率との関係は、支払を受けない、<追加>資本に転化する労働と、追加資本の運動に必要な追加労働<支払いを受ける>との関係に他ならない。だから、それは、決して、一方には資本の大きさ、他方には労働者人口、という二つの互いに独立な量の関係ではなくて、<後者は前者の従属変数にすぎないのだから>むしろ結局はただ同じ労働者人口の不払労働と支払労働との関係でしかないのである。@
労働者階級によって供給され資本家階級によって蓄積される不払労働の量が、支払労働の異常な追加によらなければ資本に転化できないほどに急速に増大すれば、賃金は上がるのであって、他の事情がすべて変わらないとすれば、不払労働はそれに比例して減少するのである。ところが、この<不払労働の>減少が、資本を養う<つまり維持し拡大させる>剰余労働がもはや正常な量では供給されなくなる点に触れるや否や、そこに反動が現われる。収入のうち資本化される部分は小さくなり、蓄積は衰え、賃金の上昇運動は反撃を受ける。つまり、労働の価格の上昇は、やはり、ある限界の中に、すなわち資本主義体制の基礎<剰余価値の生産>を単に揺るがさないだけではなく、増大する規模でのこの体制の再生産を保証するような限界の中に、閉じ込められているのである。@
だから、一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則が実際に表わしているのは、ただ、資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅威を与える恐れのあるような労働の搾取度の低下や、またそのような労働の価格の上昇は、全て、資本主義的蓄積の本性<労働力の搾取=剰余価値の資本への転化>によって排除されている、ということでしかないのである。@
そこでは労働者<すなわちその労働活動・発現、その主体>が<資本という形を取った労働の客体的条件による>現存の価値の増殖欲求のために存在するのであって、その反対に<労働活動による>対象的な富が労働者<自身>の発展欲求のために存在するのではないという<物神化された>生産様式では、そうであるよりほかはないのである。@
人間は、宗教では自分の頭の作り物に支配されるが、同様に資本主義的生産では自分の手の作り物に支配されるのである。」(同、P807~)
ここで述べられているように、労働者人口を制約する労賃の変動は、追加資本に転化される不払労働の大きさとそのために必要とされる支払労働との関係に──つまり資本の蓄積速度の変動によって──規定されて、後者が前者の増大を妨害しない限りは上昇し、後者が前者の増大を某がし始めれば下落して、資本関係そのものの再生産を保証する限界の中に留まることになります。資本蓄積の運動とは無関係に、労働需給が直接に労賃の変動をもたらすという観点は、資本の大きさとその成分・構成を不変なものと前提しており、資本の蓄積とその速度を無視しているからにほかなりません。
人口の増加は常に生活手段の増加を凌駕するがゆえに人口は“自然的に”調整されるといういわゆる「人口法則」は、労働者人口とその労賃総額の運動が一定限度内に留まるという事実を、“自然現象”として一面的に説明しようとするものです。そうではなくて、資本主義の下での労働者人口と労賃総額の運動は、資本の蓄積・増大の運動によって規定されており、またこの資本の蓄積・増大は労働者の不払労働によってもたらされるほかないという“社会関係”こそが、労働者人口と労賃総額を一定限度内に制約しているのです。
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