読む会だより26年4月用

 

「読む会」だより(2月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

(前月の議論)では、前回出された「商品価格の分析によって(すでに展開されたように)」とはどこのことかという質問について、訳が正しければ13章の2節などではないかとチューターは答えましたが、より詳しい知人に問い合わせたところ、はっきりしないが13章の7節ではないかという返答があったと紹介しました。

価格についての復習では、商品の「価格」とは、その商品が必要労働量(価値量)という面から見れば一定量の金と“同等である”という意味で「観念的なもの」(同等関係)であるということ、言い換えれば両者の“非物質的(社会的)な面”での同等性の表示であるということ。しかし他方で、商品流通においてその商品が自分の価値性格(同等性)を発揮するためには、すなわち他の任意の商品との直接の交換可能性をもつためには、単に価格を持つだけではなくてその「価格が実現されて実際に貨幣・金に置き換わらなければならない」という必然性をも表現している、という点が説明されました(価格は価値量と乖離し得るし、また本来の商品ではないものも形式的な価格をもち得る、という点は別として)。チューターが強調したのは、商品は“実際に”社会的分業の一部分としての労働(すなわち「価値」)を含んでおり、他の商品と“同じ”社会的総労働時間の一部分として相互に関連しているということを、同名の「価格」によって表現している、ということでした。

この説明については、価値が“人間労働”だと言われると、AI化などによって労働支出が減ればやはり価値はなくなってしまうのではないか、という質問が出ました。この質問に対しては、分業の一部分が自動化されても労働によって自然を人間的な(利用可能な)ものにするという労働の役割は変わらないのではないか、とか、自動化によって労働支出が減れば個々の商品自体の価値は減少するが、社会全体の労働支出は別問題ではないのか、といった意見が出されましたが、納得には至りませんでした。

この点について、【別紙】のような追加の説明を質問者宛てにメールをしました。人間労働については直接に答えてはいませんが、自然発生的な分業の下にあっては労働時間の配分を意識的に規制することができないからこそ、人々は支出労働時間を生産“物”のもつ性格として扱い、生産物の交換を通じて労働時間の配分を規制するのであり、それが商品の価値の本質的な内容だと説明しているつもりです(*)。

(説明)の所は、時間が無くなったこともあり、2項までをチューターが棒読みするだけになってしまい、面白くなかっただろうと反省しています。もう少し工夫します。

 

今回もそうですが、復習も取り上げると時間に余裕がありません。30分ぐらい時間延長したらどうかとも思います。ただし、この場合は費用の問題も出てくるので資料代(会場費)を値上げせざるを得ません。13時半から15時半という時間設定を含めて意見を聞かせてください

 

 

(*) 『経済学批判』で分業について触れられている所を紹介しておきます。「商品の価値」にとっては、自然発生的な社会的分業の中に人々がいるということが与えられた条件です。(「現実でと同じに頭の中でも、主体が、ここでは近代ブルジョア社会が、与えられている」〔『批判要綱』、岩波文庫P321〕のであって、そこでは総労働の配分という必然性が生産物の価値という歴史的形態をとって行われます。)

 

商品世界では、発展した分業が前提されている、あるいはむしろ、発展した分業が、特定の諸商品として対立しあい、しかも同様に多様な労働様式をふくんでいる諸使用価値の多様さという形で、直接に表示されている。あらゆる特定の生産的な仕事の様式の総体としての分業は、使用価値を生産する労働として、その素材の面から観察された社会的労働の全姿態である。しかしこういうものとしての分業は、商品<価値>という立場からすれば、また交換過程の内部では、ただその結果のなかにだけ、諸商品そのものを特定のものにすることのうちにだけ、実在している。

諸商品の交換は、社会的な素材転換、つまり私的個人の特定の生産物の交換が、同時に個々人がこの素材転換のなかでとりむすぶ一定の社会的生産関係の創出でもあるような過程である。商品どうしの過程的な関連は、一般的等価物のさまざまの諸規定となって結晶し、こうして交換過程は、同時に貨幣の形成過程でもある。さまざまの過程のひとつの流れとして表示されるこの過程の全体が、流通である。」第1章「商品」の末尾岩波文庫版、P57

 

 

説明 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」 の4回目

第4節 相対的過剰人口の種々の存在形態 資本主義的蓄積の一般的法則

第5節 資本主義的蓄積の一般的法則の例解

 

第2節「蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少」などで触れられたように、労働の生産性の増大ともに資本が蓄積され、資本の構成は高度化(可変資本価値部分つまり賃金に支出される部分に比べて、不変資本価値部分つまり原材料や労働手段に支出される部分の割合が増大する)してゆきます。その結果は、労働者人口の絶対的増加にもかかわらず資本の増大に比べれば相対的に労働者人口は減少して、このために資本に吸収されない労働者の相対的な過剰人口が発生し、拡大するということでした(第3節「相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産」)。

この4節では、この相対的過剰人口の様々なあり方を取り上げるとともに、ここまでの考察を振り返って、“資本主義的な”蓄積の一般的な法則が確認されることになります。

さらに5節ではこの一般的法則の事実的例解が詳しく示されますが、ここでは数例だけを取り上げることにします。

 

. 相対的過剰人口の種々の存在形態 流動的、潜在的、停滞的の三形態と受救貧民

 

・「相対的過剰人口は、考えられる限りのあらゆる色合いで存在する。どの労働者も、彼が半分しか就業していないとか、または全く就業していない期間は、相対的過剰人口に属する。相対的過剰人口が時には恐慌期に急性的に現われ、時には不況期に慢性的に現われるというように、産業循環の局面転換によってそれに押印される大きな周期的に繰り返し現れる諸形態を別にすれば、それはつねに三つの形態がある。流動的、潜在的、停滞的形態がそれである

@

近代産業の中心──工場やマニュファクチュアや精錬所や鉱山など──では、労働者は時にははじき出され、ときには一層大量に再び引き寄せられて、生産規模に対する割合では絶えず減って行きながらも、大体において就業者の数は増加する。この場合<すなわち資本主義的蓄積の通常的な状態>には過剰人口は流動的な形態で存在する

本来の工場では、また、機械が要因として加わっているとかまたただ近代的な分業が行なわれているだけの全ての大きな作業所では、まだ少年期を過ぎていない男子労働者がたくさん使用されている。少年期を過ぎてしまえば、そのまま同じ事業部門で使用されるものは非常に少数で、大半は型通りに解雇される。これらの者は、流動的過剰人口のうちの産業規模の拡大につれて増大する要素をなしている。その一部分は移住するが、実際にはただ移住する資本について行くだけである。その結果の一つは、女子人口が男子人口よりも急速に増加するということで、イギリスがその実例である。……

資本主義的生産が農業を占領するや否や、または占領する程度に応じて、農業で機能する資本が蓄積されるにつれて、農村労働者人口に対する需要は絶対的に減少するのであるが、ここでは、農業以外の産業の場合とは違って、労働者人口の排出がそれよりも大きな吸引によって埋め合わされることはないであろう。それゆえ農村人口の一部分は絶えず都市プロレタリアートまたはマニュファクチュア・プロレタリアートに移行しようとしていて、この転化に有利な事情を待ち構えているのである。(マニュファクチュアはここではすべての非農業的産業を意味する。)だから、相対的過剰人口のこの源泉<潜在的形態>は絶えず流れているのである。@

しかし、諸都市へのその絶え間ない流れは、農村そのものに絶えず潜在的過剰人口があることを前提するのであって、この過剰人口の大きさは、ただ排水溝が特別に広く開かれるときだけ目に見えるようになるのである。それゆえ、農業労働者は、賃金の最低限度まで押し下げられて、片足はいつでも貧困の泥沼に突っ込んでいるのである。

相対的過剰人口の第三の部類、停滞的過剰人口は、現役労働者軍の一部をなしているが、その就業は全く不規則である。したがって、それは、自由に利用できる労働力の尽きることのない貯水池を資本に提供している。その生活状態は労働者階級の平均水準よりも低く、そして、まさにこのことがそれを資本の固有な搾取部門の広大な基礎にするのである。労働時間の最大限と賃金の最小限とがそれを特徴づけている。我々は家内労働という項の中ですでにその主な姿を知った。この過剰人口は、絶えず大工業や大農業の過剰労働者から補充され、また、ことに、手工業経営がマニュファクチュア経営に敗れ、後者がまた機械経営に敗れていく滅びつつある産業部門からも補充される。蓄積の範囲とエネルギーとともに「過剰化」が進むにつれて、この過剰人口の範囲も拡大される。……実際には、出生数と死亡数だけではなく、家族の絶対的な大きさも、労賃の高さに、すなわち色々な労働者部類が処分しうる生活手段の量に反比例する<貧乏人の子沢山!>。このような資本主義社会の<労働人口>法則は、未開人の間では、または文明化した植民地人の間でさえも、不合理に聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱くて迫害を受けることの多い動物種属の大量的再生産を思い出させる。」(全集版、P835~838)

 

マルクスの時代の“自由放任”の資本主義から、独占資本主義へ、そしてさらに“国家独占”資本主義(国家が経済活動に積極的に介入する)へと移るにつれて、また労働者の闘いや労働者法制による規制によって、労働者階級の生活状況は当時と変わってはいます。しかし今なお“先進”資本主義国においても、上記のような相対的過剰人口が存在しているという事態が変わることはありません(次項の受救貧民の問題を含めて)。

 

 

. 相対的過剰人口の一番底の沈殿物である受救貧民

 

・「最後に、相対的過剰人口の一番底の沈殿物が住んでいるのは、受救貧民の領域である。浮浪者や犯罪者や売春婦など、簡単に言えば本来のルンペンプロレタリアートを別にすれば、この社会層は三つの部類から成っている。第一は労働能力のある者である。イギリスの受救貧民の統計にざっと目を通しただけでも、その数が恐慌のたびに膨張し、景気の回復ごとに減少しているということが分かる。第二は孤児や貧児である。彼らは産業予備軍の候補で、例えば1860年にような大興隆期には急速に大量に現役労働者軍に編入される。第三は堕落した者、零落した者、労働能力のない者である。ことに、分業のために転業ができなくなって没落する人々、労働者としての適性年齢を越えた人々であり、最後に、危険な機械や鉱山採掘や化学工場などと共にその数を増す産業犠牲者、すなわち不具者や罹病者や寡婦などである。受救貧民は、現役労働者軍の廃兵院、産業予備軍の死重<しじゅう、機関車の空転防止のための重り>をなしている。受救貧民の生産は相対的過剰人口の生産のうちに含まれており、その必然性は過剰人口の必然性のうちに含まれているのであって、受救貧民は相対的過剰人口とともに富の資本主義的な生産および発展の一つの存在条件になっている。この貧民<のための経費>は資本主義的生産の空費に属するが、しかし、資本はこの空費の大部分を自分の肩から労働者階級や下層中間階級の肩に転嫁することを心得ているのである。」(同、P838~839)

 

前節で大事なことを言い忘れていました。それは相対的過剰人口の形成とともに、労働者階級は(その家族を含むばかりではなくて)いわば現役軍と予備軍という二つの部分に分かれるのであって、けっして就労者のみが労働者階級ではないということです。そしてこの相対的過剰人口の存在こそは、前回触れたように「労働の需要供給の法則が運動する背景」であり、「それは、この<労働の需給>法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界の中に、押し込む」のです。たより1月用でも引用したように、「資本主義の下での労働者人口と賃金総額の運動は、資本の蓄積・増大運動によって規定されて」いるのであって、マルサス的な人口法則によって規定されているわけではありません。

なお相対的過剰人口=産業予備軍の基本的な機能について、ローゼンベルグが次のように三つに簡潔にまとめているので紹介しておきます。

《(1)産業予備軍によって、資本は産業循環の動きのうちに突然、けいれん的に拡大することが出来るようになる(したがって労働人口の絶対的増大を待つ必要はない)。(2)それは好況期における労働者の『食欲を抑制する』。なぜなら、好況期にも予備軍はすっかり無くなることはないからである。(3)それは、不況期と恐慌期に賃金に対する圧迫を強める。恐慌期には、搾取度が強められるため、現実に資本の蓄積が強化される。賃金は低落し、剰余価値が増加する(剰余価値は、労働の強化と労働日の延長の結果としても増加する。一部の労働者の失業は他の労働者に、一層強度にまた長時間労働することを余儀なくさせる)。》(『資本論注解2』、大月版、P503)

 

 

. 資本主義的蓄積の一般的法則と資本主義的蓄積の敵対的な性格 資本の極での富の蓄積は、同時に対立する賃労働の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積である

 

・「社会的な富、現に機能している資本、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。<資本によって>自由に利用されうる労働力は、資本の膨張力を発展させるのと同じ原因<生産力の増大>によって、発展させられる。つまり、産業予備軍の相対的な大きさは富の諸力と一緒に増大する。しかしまた、この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。@

これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的な法則である。それは、全ての他の法則と同じように、その実現に際しては様々な事情によって変化を加えられるのであるが、このような事情の分析はここではまだされないのである。

労働者に向かって、彼らの数を資本の価値増殖欲求に合わせるようにと説教する経済学の知恵の愚かさが分かるであろう。資本主義的生産・蓄積の機構は、この<労働者の>数を絶えずこの価値増殖欲求に適合させているのである。この適合の最初の言葉は、相対的過剰人口または産業予備軍の創出であり、最後の言葉は、現役労働者のますます増大する層の貧困と受救貧民の死重とである。

ますます増大する生産手段量が、社会的労働の生産性の増進のおかげで、ますますひどく減って行く人力支出によって動かされうるという法則──この法則は、労働力が労働手段を使うのではなくむしろ労働手段が労働者を使うという資本主義的基礎の上では、労働の生産力が高くなればなるほど、労働者が自分たちの雇用手段に加える圧力はそれだけ大きくなり、したがって、労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の<価値を創造する>力を売るということはますます不安定になるということのうちに表わされている。つまり、生産的人口よりも生産手段や労働の生産性の方が速く増大するということは、資本主義的には、逆に労働者人口が常に資本の価値増殖欲求よりも速く増大するということのうちに表わされるのである。

我々は第4篇で相対的剰余価値の生産を分析した時に次のようなことを知った。すなわち、<第一に>資本主義的体制の下では労働の社会的生産力を高くするための方法は全て個々の労働者の犠牲において行われるということ、<第二に>生産の発展のための手段は、全て、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程全体に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼らから疎外するということ、<第三に>これらの<社会的生産力発展の>手段は彼が労働するための諸条件を歪め、労働過程では彼を<資本の>狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を<すべて>労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げ込むということ、これらのことを我々は知ったのである。しかし、剰余価値を生産するための方法は全て同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大は全てまた逆にかの<剰余価値生産の>諸方法の発展のための手段になるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるを得ないということになるのである。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという<資本の労働人口>法則は、……労働者を資本に釘付けする。それ<資本の労働人口法則>は、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極<資本>での富の蓄積は、同時に反対の極<賃労働>での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである

このような、資本主義的蓄積の敵対的な性格は、経済学者たちによって色々な形で言い表されている。といっても、彼らは、部分的には類似していても本質的には違っている前資本主義的な生産様式の諸現象をこれと混同しているのではあるが。」(同、P839~841)

 

この資本主義的蓄積の一般的法則は、いわゆる労働者の「窮乏化」説としてブルジョアから批判を受けてきました──労働者階級も分化・多様化して中間層が増大した、極貧層は福祉国家が救済している等々。むろん、労働者階級は失業者だけからなっているものではありません。現役軍のほうは事情によっては高い支払いを受け、わずかながらも金銭的に余裕のある生活を送る場合もあります。しかしほとんどの労働者にとっては、その金銭的“余裕”も「生産」手段を買って資本として機能させうるほどではない(物事には例外が付きものですが)、ということが要点です。資本にとっての問題は、剰余価値を生み出し自らを増殖させるためには生産手段を持たない“無産”の労働者“階級”の維持が不可欠だということなのです。他方で労働者にとっては、賃労働者としての生活が結局は自らを搾取・支配する鎖(資本)を強くすることに結果する、という点こそが問題です。そして、資本の蓄積の増大に比べれば、労働者の生活の改善は極めて僅かであり、この点から(つまり相対的に)見るならばマルクスの言う通り、「資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるを得ない」し、また「労働の生産力が高くなればなるほど……労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の力を売るということはますます不安定になる」ということは間違いなく一つの法則であり傾向なのです。言うまでもなく、この労働者の生活の矛盾の解決は、生産手段の共同的所有に基づく意識的な生産の組織つまり固定化した社会的分業の廃棄に求めるほかはありません

相対的過剰人口や受救貧民に陥っている労働者は「福祉」で救われるわけではない、とここで言っておかなければなりません。労働者が要求するのは、そうした人々の労働を可能とする条件でありまた実際に労働を実現する場所なのであって、すなわち労働者としての「協働」ないし「共助」です(労働不能者は別ですが)。「福祉」がそれらを排除するならば、それは労働者階級の死重である相対的過剰人口を維持する役割を果たしているだけなのです。

 

 

. 第4節「例解」の一部分の紹介 「b イギリスの工業労働者階級の低賃金層」と「e イギリスの農業プロレタリアート」より

 

・「最も勤勉な労働者層の飢餓的苦痛と、資本主義的蓄積に基づく富者の粗野または優美な奢侈的消費との内的関連は、経済的諸法則を知ることによってはじめて明らかにされる。<直接に目に見えるように現象している労働者の>住居の状態についてはそうではない。偏見のない観察者なら誰でも認めるように、生産手段の集中が大量であればあるほど、それに応じて同じ空間での労働者の密集もますます甚だしく、したがって、資本主義的蓄積が急速であればあるほど、労働者の住居の状態はますます惨めになる。富の進展に伴って、不良建築地区の取り払い、銀行や大商店などの巨大な建物の建築、取引上の往来や贅沢な馬車のための道路の拡張、鉄道馬車の開設、等々による諸都市の「改良」が行なわれ、そのために目に見えて貧民はますます悪い、ますますぎっしり詰まった片隅に追い込まれる。他方では、誰でも知っているように、住宅の高価はその質に反比例するのであって、貧困という鉱山は、かつてポトシの鉱山が採掘されたときよりももっと多くの利潤ともっと少ない費用とで家屋投機師たちの手で採掘される<貧困ビジネスだ!>のである。資本主義的蓄積の、したがって資本主義的所有関係一般の、敵対的な性格は、ここではあまりにも明白であって、この対象<労働者の住宅問題>についてのイギリス政府の報告でさえも『所有とその権利』に対する異端的な攻撃で充満しているほどである。」(同、P857~858)

 

・「資本主義的生産・蓄積の敵対的な性格が野蛮に現われているという点では、イギリス農業(牧畜を含む)の進歩とイギリス農業労働者の退歩とに勝るものはない。……

都市への不断の移住、農業借地の集中や牧場化や機械の採用などによる農村での不断の『人口過剰化』、小屋の破壊による農村人口の不断の追立、これらのことが手に手を携えて進んでいく。一つの地域の人間が減れば減るほど、その地域の『相対的過剰人口』はますます大きくなり、この過剰人口が雇用手段に加える圧力も居住手段を超過する農村住民の絶対的過剰もますます大きくなり、したがって農村では局地的過剰人口と最も悪疫培養的な人間の詰込みがますます酷くなるのである。散在する小村落や市場町での人間集団の密度の増大は、農村の表面での無理やりの人間排出に対応している。農村労働者の数の減少にもかかわらず、しかも彼らの生産物量の増大につれて、絶え間なく進行する農村労働者の『過剰化』は、彼らの受救的貧窮のゆりかごである。遂にはやって来る彼らの受救的貧窮は、彼らの追立ての一動機であり、彼らの住宅苦の主要な源泉であって、この住宅苦はまた最後の抵抗力を挫いて、彼らを地主や借地農業者の本当の奴隷にしてしまい、こうして労賃の最低限度を彼らにとっての自然法則として固定するのである。@

他面では、農村は、その恒常的な「相対的人口過剰」にもかかわらず、同時に人工不足でもある。これは、都市や鉱山や鉄道工事などへの人間流出が余りにも急激における地点でただ局地的に現われるだけではなく、収穫期にも春や秋にも、非常に念入りで集約的なイギリスの農業が臨時の人手を必要とする多くの時期にどこでも見られることである。農村労働者は、農業の中位の要求に対してはいつでも多すぎるのであり、例外的または一時的な要求に対してはいつでも少なすぎるのである。それゆえ、公的な文書の中でも、同じ場所で同じ時に労働不足と労働過剰という互いに矛盾する苦情が記されてあるのを見出すのである。一時的または局地的な労働不足が引き起こすものは、決して労賃の引き上げではなく、女や子供に農耕を強制することであり、この強制がますます低い年齢層に下がって行くことである。女や子供を搾取する範囲が大きくなれば、それがまた男の農村労働者の過剰化とその賃金の抑制とへの新たな手段になるのである。……(同、P878、P904~905)

 

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