読む会だより26年3月用

 

「読む会」だより(2月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

2月の「読む会」は15日に開催されました。

(前月の議論)の所では、自動化についての発言は、単に「採算性のとれないところ」では進まないというのではなくて、FA工場の動向を見ても人間の労働を完全には排除できないという意味だ、という追加発言がありました。

久留間氏の「商品生産の特殊な性格と価値の本質」についての資料については、まず2頁目の後半に「ここに商品生産の基本的な矛盾が存在する」とあるが、どのような矛盾か、という質問が出ました。チューターは、その前の部分にある、「商品生産者の労働は……私的な労働としててんでバラバラに行なわれる。にもかかわらずそれらは、全体として社会的分業の体制を構成するものとして社会の総労働の一部分としての実を持たねばならぬ」ということだろう。その少し前の説明にあるように、「社会的生産が行なわれるための最も基本的な条件は、個々人の労働が何らかの仕方で社会的に統一されるということ、かくしてそれらが社会の総労働の部分としての関連を持つということである」。しかし、商品生産においてはそうした人々の労働の関連は、直接にはつまり「労働自体としては」統一されておらず、相互独立的で私的なものとして自然発生的に行なわれている。商品生産者の労働は、相互に独立な私的労働でありながらも、それらは社会的な分業の諸部分として関連を持たねばならない、これが基本的な矛盾だと言っているだろう、と説明しました。

(付け加えておくと、だから続けて「したがって<彼らの労働自体では社会的関連を持ち得ないのだから>問題は、この矛盾が彼らの労働の生産物の交換の関係によってどのように媒介されるかが、あるいは彼らの労働の生産物の交換のどのような契機において、商品生産者の私的な労働は社会的労働としての定在を獲得するか──こういう問題に帰着することになる」とあるわけです。この指摘は、「資本論」冒頭の商品論ないし価値論におけるマルクスのもっとも基本的な問題意識を示唆しているように思われます。)

また別の参加者からは、その少し前の「商品生産者たちの間の生産関係は、直接彼ら自身の間の……関係としては樹立されないが、その代わりに一種の“回り道”をして、すなわち彼らの生産物の商品としての交換の関係を通して、樹立されるのである」の部分について、人間ではなくて商品(物)が主体だということか、という質問が出ました。チューターは、その前の部分で、商品生産の場合には「労働力そのものが社会のものになっていないのであるから、労働もまた直接には──<人間活動である>労働そのものとしては──社会的性格をもっていない。それは私的な労働にとどまる」とあることに注意してほしい。商品生産者たちの関係が、かれらの意識的活動を通じてではなくて、その生産物の関係(つまり価値関係)を通じて樹立されるのは、私的所有の発展における歴史的に独自な一時代に特有なことだろう。ここでは価値関係の主体が人間ではなくて商品(物)だ、ということに力点があるのではなくて、発展した商品生産にあってはそれ以前の社会のように何らかの形ではあれ諸個人の労働力が社会的に統一されてはいない、だからその生産物に社会的に統一した価値性格を与えるという「回り道」をして社会的分業を成立させる、ということを問題にしているだろう、と説明しました。(なお、ここでの「回り道」というのは、価値に社会的妥当性を与えるための一つの方法であるいわゆる「価値表現の回り道」とは別の事柄です。)

(付け加えておくと、マルクスは第1章でこう触れています。「商品生産者たちの一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させるということにある……」、第4節、全集版P106。)

(説明)の所では、たよりの2頁中ほどに「可変資本に比べて不変資本部分がだんだん増大していくという法則は、商品価格の分析によって(すでに展開されたように)一歩ごとに確証される」とあるのは、どこのことか、という質問が出ました。当日は探し忘れていたので探してみました。第1巻4篇「相対的剰余価値の生産」の13章「機械と大工業」の2節「機械から生産物への価値移転」の中(全集版ではP510あたり)などのことではないかと思いますが、はっきりしません。ただ、岩波文庫版の翻訳では(すでに展開されたように)という挿入部分は、「法則は」とその後の「、(句読点)」の間に入っています。この訳ですと、「可変資本に比べて不変資本がだんだん増大していくという法則」はすぐその前のパラグラフなどで展開されていますし、「商品価格の比較分析によって、一歩ごとに確証される」というのは、必ずしも「すでに展開された」ということを意味するのではなくて、《以下の第3節等々で確証していくように》といった意味にもなります。こちらの訳が正しいのかもしれません。

その他には特に質問、意見は出ませんでした。

最後に、第1巻が終わったらどうするのか、という質問が出ました。まだ未決定で参加者の方からの意見も聞きながら考えていきます。チューターは今のところ、読む会の月例会としては再び第1巻の初めから(ポイントを押さえる形で)開催し、第2巻以降の部分はzoomなどを使ったリモート形式でやったらどうか(会場予約や開催時間に自由度がある)と、考えています。提案があればお願いします。

 

今回は「価格」についての復習を考えています。また、岡崎次郎著『資本論入門』の第1巻部分の残りのプリントをお渡しします(無料です。カンパは受け付けます)。テキストデータのほうが都合が良いという方には、メールで送付しますのでIZあてにご連絡ください。

 

 

《23章3節の(説明)にあたって》

 

ここしばらく復習的なことを重複的にやってきたために、(説明)部分の立ち位置が不明になってしまったかと思います。この23章は、3巻ある『資本論』のうちの第1巻「資本の生産過程」の最後をなす、第7篇「資本の蓄積過程」(21章~25章)の一部です。たよりの25年5月用で触れましたように(もう1年近く経ってしまいました!!)、7篇の「まえがき」でマルクスはこう振り返っています。

ある貨幣額の生産手段と労働力とへの転化は、資本として機能するべき価値量が通る第一の運動である。この運動は、市場すなわち流通部面で行われる運動の第二段階、生産過程は、生産手段が商品に転化されたときに終わり、この商品の価値はその諸成分の価値を越えている。すなわち、最初に前貸しされた資本に<剰余労働が生み出す>剰余価値を加えたものを含んでいる。」(全集版、P735)

この資本の運動のうちの第1と第2の段階の分析が、第2篇「貨幣の資本への転化」から第6篇「労賃」までの内容でした。(ちなみに第1篇「商品と貨幣」は、資本の基礎となる商品と貨幣の分析ということでしょう。)続いてこう述べます。

「それからまたこれらの商品は再び流通部面に投げ込まれなければならない。<すなわち>それ<諸商品>を売ること、その価値を貨幣に実現すること、その貨幣を改めて資本に転化させること、そしてそれが繰り返されることが必要である。」

この第3段階目が「資本の流通」であり、その分析をマルクスは第2巻で行なうことになるのですが、その前にこの第7篇「資本の蓄積過程」が置かれています。そして、この第7篇の課題については21章でこう触れられています。

我々が第4章<「貨幣の資本への転化」>で見たように、貨幣を資本に転化させるためには、商品生産と商品流通とが存在するだけでは足りなかった。まず第一に、一方には価値または貨幣の所持者、他方には価値を創造する実体<労働力>の所持者が、<つまり>一方には生産手段と生活手段との所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。

ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純再生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。@

一方では生産過程は絶えず素材的富を<労働力を搾取するための材料となる>資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方ではこの<生産>過程から絶えず労働者が、そこに入った時と同じ姿で──富の人的源泉であるがこの富を自分たちのために実現するあらゆる手段を失っている姿で──出てくる。彼がこの過程に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程の中で絶えず他人の生産物に対象化されるのである。生産過程は同時に資本家が労働力を消費する過程でもあるのだから、労働者の生産物は、絶えず商品に転化するだけではなく、資本に、すなわち価値を創造する力を搾取する価値に、人身を買う生活手段に、生産者を使用する生産手段に、転化するのである。@

それだから、労働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産するのであり、そして資本家もまた絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化し実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体の内に存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単にいえば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである」(同、P742)

第7篇の課題は、この“資本関係”の永久化が、つまり一方では客体的な労働条件を“資本”として再生産するとともに他方では主体的な労働力がその労働条件から切り離された“賃金労働者”として再生産されるという過程が、どのようにして更新されていくのか、これを分析することなのです。そして21章「単純再生産」においては、連続する更新の中ではいわば「結果がまた原因になる」(P825)という再生産の条件一般が検討され、22章「剰余価値の資本への転化」では、前貸資本が蓄積資本に転化するための素材的条件が検討された後、この23章では資本の蓄積つまりその拡大再生産の条件を検討しつつそこでの法則性を確認してゆくのです。

 

 

説明 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」 の3回目

第3節 相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産

 

. 資本の蓄積は、資本の可変成分を犠牲とする不変成分の不断の増大を伴って行なわれる。したがって資本主義的蓄積は、資本の平均的な増殖欲求にとって相対的に過剰な労働者人口を絶えず生み出す。これが資本主義的生産様式に特有な人口法則である

 

・「資本の蓄積は最初はただ資本の量的拡大として現われたのであるが、それが、今見てきたように、資本の構成の不断の質的変化を伴って、すなわち資本の可変成分を犠牲としての不変成分の不断の増大を伴って、行なわれるようになるのである。

<相対的剰余価値取得のための>独自な資本主義的生産様式、それに対応する労働の生産力の発展、それによって引き起こされる資本の有機的構成の変化は、蓄積の進展または社会的富の増大と単に同じ歩調で進むだけではない。それらはもっとずっと速く進行する。なぜかといえば、単純な蓄積すなわち総資本の絶対的拡大は総資本の個々の要素の集中を伴うからであり、また追加資本の技術的<素材的>変革は原資本の技術的変革を伴うからである。……労働に対する需要は総資本の大きさによってではなくその可変成分<可変資本部分>によって規定されているのだから、それは、総資本の増大につれてますます減って行くのであって、前に想定したように総資本の増大に比例して増加するのではない。それは総資本の大きさに比べて相対的に減少し、またこの大きさが増すにつれて加速的累進的に減少する。……この増大する蓄積と集中とは、それ自身また資本の構成の新たな変化の、すなわち資本の不変成分に比べての可変成分の一層速くなる減少の、一つの源泉となるのである。@

このような、総資本の増大につれて速くなり、そして総資本そのものの増大よりももっと速くなるその可変成分の相対的な減少は、他面では、反対に、可変資本すなわち労働者人口の雇用集団の増大よりもますます早くなる労働者人口の絶対的な増大のように見える。そうではなく、むしろ、資本主義的蓄積は、その精力と規模とに比例して、絶えず、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求にとって余計な、したがって過剰な、または追加的な労働者人口を生み出すのである

……既に機能している社会的資本の大きさとその増大の程度とにつれて、生産規模の拡大と動かされる労働者軍の増大とにつれて、彼らの労働の生産力の発展につれて、富の全ての源泉の流れが広くなり満ちてくるにつれて、資本が労働者をますます多く引き寄せたりますます多くはじき出したりする規模もまた拡大され、資本の有機的構成や資本の技術的形態の変化はますます速くなり、また、ある時は同時に、ある時は交互に、この変化に襲われる生産部面の範囲は広くなる。だから、労働者人口は、それ自身が生み出す資本蓄積につれて、ますます大量にそれ自身の相対的過剰化の手段を生み出すのである。これこそは、資本主義的生産様式に特有な人口法則なのであって、実際、どの特殊な歴史的生産様式にも、それぞれ特殊な歴史的に妥当する人口法則があるのである。抽象的な人口法則というものは、ただ動植物にとって、人間が歴史的に干渉しない限りで、存在するだけである。」(全集版、P819~822)

 

機械と大工業によって労働の生産力を高め相対的剰余価値を取得するという、独自に資本主義的な生産様式の進展は、資本の不変成分の不断の増大(可変成分の不断の減少)を伴って行なわれます。このために資本の蓄積つまりその拡大再生産は、資本の平均的な増殖欲求から見て相対的に過剰な労働者人口を絶えず生み出すという結果をもたらします。相対的過剰人口は、3項にあるように労働者階級にとっては労働者間の競争によって労賃を労働力の価値へと固定し続ける死重のようなものですが、他面ではそれは2項にあるように剰余価値の取得と価値増殖を目的とする資本主義的生産つまり資本関係の再生産にとっては、必要不可欠な存在条件でもあるのです。

 

. 他方で相対的過剰人口は資本主義的蓄積の槓杆として、資本主義的生産様式の一つの存在条件になる

 

・「しかし、過剰労働者人口が蓄積の、言い換えれば資本主義的基礎の上での富の発展の、必然的な産物だとすれば、逆にまたこの過剰人口は、資本主義的蓄積の槓杆に、実に資本主義的生産様式の一つの存在条件に、なるのである。それは自由に利用されうる産業予備軍を形成するのであって、この予備軍は、まるで資本が自分の費用で育て上げたものででもあるかのように、絶対的に資本に従属しているのである。この<相対的>過剰人口は、資本の変転する増殖欲求のために、いつでも搾取できる人間材料を、現実の人口増加の制限には関わりなしに、つくり出すのである。@

蓄積と、それに伴う労働の生産力の発展とにつれて、突発的な資本の膨張力が増大するが、……すべてこのような場合には、人間の大軍が、突発的に、しかも他の部面で生産規模を害することなしに、決定的な点に投入されうるようになっていなければならない。過剰人口はそれを供給するのである。近代産業の特徴的な生産過程、すなわち、中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されながら、10年ごとの循環をなしている形態は、<剰余価値率を制約する>産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成に基づいている。この産業循環の変転する諸局面は、またそれ自身、過剰人口を補充するのであって、過剰人口の最も精力的な再生産動因の一つになるのである。

……生産規模の突発的な発作的な膨張は、その突発的な収縮の前提である。収縮はまた膨張を呼び起こすのであるが、しかし膨張のほうは、利用可能な人間材料なしには、人口の絶対的増加に依存しない労働者の増加なしには、不可能である。このような増加は、労働者の一部分を絶えず「遊離させる」単純な過程によって、生産の増加に比べて使用労働者数を減らす方法によって、つくり出される。だから、近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる徴候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現われている。……」(同、P823~825)

 

資本主義的蓄積つまり拡大再生産は、労働者の生み出す剰余価値の増大に基づく他はありません。信用の膨張や収縮は、労働者が生み出す社会の総剰余価値量の変動を反映しているにすぎません。だからそれを産業循環転換の“原因”と見なすブルジョア経済学は軽薄だと、こうマルクスは言うのです。(信用制度や産業循環の“原因”となる利潤率の低下などの問題について詳しくは、第3巻で触れられます。)

 

. 労働者階級の就業部分の過度労働はその予備軍の隊列を膨張させるが、この予備軍がその競争によって就業部分に加える圧力の増大は、また逆に就業部分に過度労働や資本の命令への屈従を強制する

 

・「資本主義的生産にとっては、人口の自然的増加が供給する利用可能な労働力の量だけでは、決して十分ではない。この生産は、その自由な営みのためには、この自然的限度に制限されない産業予備軍を欠くことができないのである。……

すでに見たように、資本主義的生産様式と労働の生産力との発展──それは蓄積の原因でもあれば結果でもある──につれて、資本家は、同額の可変資本を投下しても個々の労働力の外延的または内包的な搾取の増大によって、より多くの労働を流動<支出>させることができるようになる。また、やはりすでに見たように、資本家は同じ資本価値でより多くの労働力を買うようになる。というのは、彼はますます熟練労働者を不熟練労働者によって、成熟労働者を未成熟労働者によって、男子労働者を女子労働者によって、成年労働力を少年または幼年労働力によって、駆逐していくからである。

こうして、蓄積の進行につれて、一方ではより大きい可変資本が、より多くの労働者を集めることなしに、より多くの労働を流動させるのであり、他方では同じ大きさの可変資本が同じ量の労働力でより多くの労働を流動させるのである。

それゆえ、相対的過剰人口の生産または労働者の遊離は、そうでなくても蓄積の進行につれて速くされる生産過程の技術的変革よりも、またそれに対応する不変資本部分に比べての可変資本部分の比率的減少よりも、もっと速く進行するのである。生産手段は、その規模や作用力が大きくなるのにつれて、ますます僅かな度合いで労働者の雇用手段になるとすれば、この関係そのものをさらにまた変えていくものは、労働の生産力が増進するのにつれて資本はその労働供給をその労働者需要よりももっと速く大きくしていくということである。@

労働者階級の就業部分の過度労働はその予備軍の隊列を膨張させるが、この予備軍がその競争によって就業部分に加える圧力の増大は、また逆に就業部分に過度労働や資本の命令への屈従を強制するのである。労働者階級の一方の部分が他方の部分の過度労働によって強制的怠惰という罰を加えられるということ、またその逆のことは、個々の資本家の致富手段になり、また同時に、社会的蓄積の進展に対応する規模での産業予備軍の生産を速くする……」(同、P827~829)

 

4節で資本主義的蓄積の“絶対的”な法則・傾向について触れられますが、ここでも分かるようにそれは、一方の極における富の蓄積は同時に他方の極における貧困の蓄積である、という両極的な対立であり、その激化に他なりません

この引用の次の部分では、資本の蓄積労賃の上昇と労働者数絶対的増加に結果するというブルジョア経済学の主張への反論が示されますが、ここでは割愛します。

 

 

. 相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景であり、その法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに適合する限界の中に押し込む

 

・「産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それ<相対的過剰人口>は、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界の中に、押し込むのである……

資本は<労働の需要と供給との>両方の側で同時に作用するのである。一方で資本の蓄積が労働に対する需要を増やす時、他方ではその蓄積が労働者の「遊離」によって労働者の供給を増やすのであり、同時に失業者圧力は就業者により多くの労働を流動させることを強制してある程度まで労働の供給を労働者の供給から独立させるのである。この基礎の上で行なわれる労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制を完成する。@

それだからこそ、労働者たちが、自分たちがより多く労働し、より多く他人の富を生産し、自分たちの労働の生産力が増進するにつれて、自分たちにとっては資本の価値増殖手段としての自分の機能までがますます不安定になるというのは、一体どうしてなのか、という秘密を見抜いてしまうや否や、また彼らが、彼ら自身の間の競争の強さの程度は全くただ相対的剰余人口の圧力によって左右されるものだということを発見するや否や、したがってまた、彼らが労働組合などによって就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が彼らの階級に与える破滅的な結果を克服または緩和しようとするや否や、資本とその追従者である経済学者とは、「永遠な」いわば「神聖な」需要供給の法則の侵害について叫び立てるのである。すなわち、就業者と失業者との連結は、全て、かの法則の「純粋な」働きをかき乱すからである。他方、たとえば植民地で、反対に作用する諸事情が産業予備軍の創出を妨げ、また同時に資本家階級への労働者階級の絶対的な従属を妨げるや否や、資本は、そのぼんくらなサンチョ・パンサと一緒に「神聖な」需要供給の法則に反逆して、強制手段によってそれを抑え込もうとするのである。」(同、P832~834)

 

《説明にあたって》で引用した21章の言葉のように、「……一方には価値または貨幣の所持者、他方には価値を創造する実体<労働力>の所持者が、<つまり>一方には生産手段と生活手段との所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純再生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化される」のでした。

だからこそ、ここでの後半に触れられているような労働者の闘いは、単なる結果に対する闘い(改良闘争)に留まることなく、労働条件と労働力の新たな結合のために、すなわち生産手段を社会的・共同的なものにするための闘いにも向けられなければならないのです。

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