読む会だより26年2月用

 

「読む会」だより(2月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

1月の「読む会」は18日に開催されました。

(前月の議論)の所では、価格現象の背後に隠されているものという部分での参加者の意見を、チューターが別の部分での意見と取り違えて書いたようです。すみませんでした。また、労働の配分が商品価値の変動を通じて規制されるという点については、価値法則の貫徹がそのような形で現われると思っているという意見が出ました。

当日配布した価値形態についてのプリントに対しては、労働価値説に立つならばAIなどの進展が進めば人間労働そのものがなくなってしまうのではないか、という質問が出ました。チューターは、資本主義の発展は分業の発展としてあるし、その中の一部分が自動化されたからといって人間が自然を変革して自らの有用物とするという関係自体は変わるものではないのではないかと答えました。参加者からは、世界的といえる企業の下請けで働いていて、たしかに非常に自動化され計画化されている部分もあるが、採算性のとれない所などは人間任せにするという逆の部分もある。そうした自動化は人間労働が無くなるという問題ではなくて、資本主義の下では労働者の一部分が労働から排除されるということではないか、という意見が出ました。

この問題に対しては、ホワイトカラーであったプログラマーが仕事を無くしてブルーカラーの配管工になるなどの例も聞くとか、医療の現場でもロボット化やAIの利用が進んでいるが根本は人間ではないか、また人間の労働そのものはなくならないではないか等々、多くの参加者から意見が出ました。

(説明)の所では、第1節の説明自体には質問等は出ませんでした。23章で問題にされる相対的過剰人口に関しては、就職氷河期の世代としてとても胸に刺さる、就職できるかできないかは個人の「選択」の問題ではなくてまさに資本主義のロジックの問題と思った、という意見が出ました。全体としての質疑では、不変資本と可変資本の違いは何かという質問が出て、参加者から大まかな説明がありました。また新しい参加者からは、若い頃に読んだだけだが資本論はこの社会の本質をつく大事な古典だと思っている、という感想が出ました。

 

当日配布した、価値形態のプリントでのチューターの説明が一面的だった(商品生産の社会性を強調するあまり、その基礎が私的生産であることとの矛盾の指摘が浅かった)と思い、後日参考資料として久留間鮫造の商品生産の特殊な性格と価値の本質」についての注釈をメールしました。質問などあれば出してください。

今回は復習として「価格」について大まかな説明を予定していましたが、先送りして以前から要望のあった『資本論』の“概説書”を資料として紹介することにします(岡崎次郎著、『資本論入門』、国民文庫)。何ごとも疑問をもつことが理解の始まりだとチューターは思うので“概説”はどうかとも思うのですが、当該部分までをプリントしたものを当日お渡しします。持ち帰って参考にしていただいて、質問などがあれば答える形にさせてください。《資本の生産過程は、労働力に転化した価値の自己増殖過程である》(P98)といった指摘などは、当たり前といえば当たり前ですがとても良い指摘のように思います。

会で【復習】として出したものも参考にしてください。

 

 

説明 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」 の2回目

第2節 蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少

 

. 労働の生産性の増加は、生産手段量に比べての労働量の減少に現われる。資本の蓄積とともに、その価値構成における可変資本部分に比べての不変資本部分の増大が法則となる

 

・「……これまで我々はこの<蓄積の>過程の一つの特殊な局面だけを見てきた。すなわち、<労働者にとっての有利な局面である>資本の技術的<素材的>構成が不変のままで資本の増大<蓄積>が生ずるという局面である。だが、過程はこの局面を越えて進む。

資本主義的体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最も強力な槓杆となる点が必ず現れる……

土地の豊度などのような自然条件を別とすれば、また単独で労働する独立生産者の技能……を別とすれば、労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が<労働力として>機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……とはいえ、条件であろうと結果であろうと、生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである

このような資本の技術的<素材的>構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲にしての不変成分の増大に、反映する。……。この、可変資本部分に比べて不変資本部分がだんだん増大していくという法則は、商品価格の比較分析によって(すでに展開されたように)一歩ごとに確証される……消費される生産手段の価値すなわち不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう。」(全集版、P811~813)

 

この部分でマルクスは二つの注意を与えています。ひとつは、労働の生産性の上昇につれて労働の消費する生産手段の規模は増大するが、しかしその規模に比べてその価値は低下する、という点。二つには、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、その絶対量の増大を排除するものではない、という点です。

 

. 第11章で触れられたように、多数の労働者の協業は資本主義的生産の出発点である。手工業から資本主義的生産に移るためには個人の手に一定程度の本源的な蓄積が必要となる

 

・「第4篇<「相対的剰余価値の生産」は、第10章「相対的剰余価値の概念」、第11章「協業」、12章「分業とマニュファクチュア」、13章「機械と大工業」からなる>で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提し、ただこの前提の下でのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生み出すことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる。@

商品生産では生産手段は私人の所有であり、したがって手の労働者は単独で独立に商品を生産するか、または自己経営のための手段を持っていなければ自分の労働力を商品として売るのであるが、このような商品生産という基礎の上では、かの<大規模の協業という>前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されていくのにつれて、実現される。<私的所有・私的経営に基づく>商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ<労働力の搾取による剰余価値の生産という>資本主義的形態においてのみ担うことができる。したがって、個々の商品生産者の手の中でのある程度の資本の蓄積が、<生産力の増大による相対的剰余価値の生産という>独自な資本主義的生産様式の前提になるのである。それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行に際しては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積と呼ばれてよい。なぜならば、それは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的基礎だからである。このような<本源的な>蓄積そのものがどうして生ずるかは、ここではまだ研究しなくてもよい。とにかく、それが出発点なのである。」(同、P814)

 

この本源的蓄積については、次の第24章で詳しく述べられることになります。

 

 

. 社会的生産力を増大させる方法は、同時に、資本による資本の生産の方法またはその加速的蓄積の方法である。資本蓄積と相対的剰余価値の生産の進展は、資本の素材的構成の変化とその価値成分のうちの可変資本部分の相対的減少を呼び起こす

 

・「しかし、この<個人の手の中へのある程度の資本蓄積という>基礎の上で成長するところの、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、全て、同時にまた剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身また蓄積の形成要素である。だから、この<社会的生産力増大の>方法は、同時に、資本による資本の生産の方法、または資本の加速的蓄積の方法である剰余価値から資本への連続的な再転化は、生産過程に入る資本の量が増大していくこととして現われる。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それに伴う労働の生産力の増大方法の基礎となり、剰余価値の加速的生産の基礎となる。こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的<素材的>構成の変化を生み出すのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。」(同、P814~815)

 

 

. 資本の蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の社会的な増大として現われるが、他方では多数の個別資本への分裂と反発として現われる

 

・「各個の資本は生産手段の大なり小なりの集積であって、その大小に応じて大なり小なりの労働者軍の指揮権を持っている。どの蓄積も新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手の中でのこの富の集積を拡大し、したがって大規模生産と独自な資本主義的生産方法との基礎を拡大する。@

<商品生産の地盤では>社会的資本の増大は多数の個別資本の増大によって行なわれる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の可除部分をなしている割合に応じて増大する。同時に、元の資本から若枝が分かれて、新しい独立な資本として機能する。その際、とりわけ、資本家の家族の間での財産の分割は、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積につれて資本家の数も多かれ少なかれ増えるのである。@

このような<生産手段の>集積は、直接に蓄積に基づくものであり、またはむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手の中での社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大の程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに配分されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対しているだから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行なわれているのである。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発として現われるのである。」(同、P815~816)

 

 

. 資本の吸引=集中は、そのたんなる蓄積=集積とは違って、すでに機能している資本の配分を変えるだけであり、社会の富の増加を前提するものではない

 

・「このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発に対しては、この諸部分の吸引<集中>が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。@

この過程を第一の<集積の>過程から区別するものは、この<集中による集積>過程はただ既に存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということである。一方で資本が一つの手の中で大きな塊に膨れ上がるのは、他方で多くの手の中から資本が無くなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。」(同、P816~)

 

 

. 資本の集中の経過についてのマルクスの概説、集中の強力な槓杆としての競争と信用。追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せ、他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出す

 

マルクスは、資本の生産過程の考察では資本の集中の法則性(必然性)については論じられないと言いながらも、次のようにその経過を概括しています。ここでは資本の集中における「強力な槓杆」として競争と信用の役割が強調されています。

 

・「このような諸資本の集中または資本による資本の吸引の諸法則をここで展開することはできない。事実を簡単に示唆しておくだけで十分である。@

<個別資本による>競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件の下で営むために必要な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対しあう諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手に入り、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つの全く新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそり入ってきて、社会の表面に大小さまざまな量で散らばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での一つの新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。

資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆が、発展する。@

それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望を創り出し、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段を創り出す。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。@

しかし<資本の>集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の進展は決して社会的<総>資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現である集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的<総>資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。<集中においては、>一方で資本が一つの手の中で巨大な塊に膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。仮にある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模の拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようと──<合併>この場合には幾つかの資本が他の諸資本に対して優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集を壊して、次にバラバラになった破片を自分の方に引き寄せる──、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働を一層包括的に組織するための、その物質的推進力を一層広く発展させるための、すなわち、個々バラバラに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸次的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、全く緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的<素材的>構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働に対する相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といっても一層速く、再生産され増殖され、こうして<資本の>社会的蓄積の新しい強力な槓杆となる。だから、<資本の>社会的蓄積の進展という場合には、そこには──今日では──集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本(第22章第1節を見よ)は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒介として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くに機械や原料を動かすのに前より少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によって既に大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな<技術的・素材的>構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。」(同、P816~819)

 

 

「読む会」だより(2月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

1月の「読む会」は18日に開催されました。

(前月の議論)の所では、価格現象の背後に隠されているものという部分での参加者の意見を、チューターが別の部分での意見と取り違えて書いたようです。すみませんでした。また、労働の配分が商品価値の変動を通じて規制されるという点については、価値法則の貫徹がそのような形で現われると思っているという意見が出ました。

当日配布した価値形態についてのプリントに対しては、労働価値説に立つならばAIなどの進展が進めば人間労働そのものがなくなってしまうのではないか、という質問が出ました。チューターは、資本主義の発展は分業の発展としてあるし、その中の一部分が自動化されたからといって人間が自然を変革して自らの有用物とするという関係自体は変わるものではないのではないかと答えました。参加者からは、世界的といえる企業の下請けで働いていて、たしかに非常に自動化され計画化されている部分もあるが、採算性のとれない所などは人間任せにするという逆の部分もある。そうした自動化は人間労働が無くなるという問題ではなくて、資本主義の下では労働者の一部分が労働から排除されるということではないか、という意見が出ました。

この問題に対しては、ホワイトカラーであったプログラマーが仕事を無くしてブルーカラーの配管工になるなどの例も聞くとか、医療の現場でもロボット化やAIの利用が進んでいるが根本は人間ではないか、また人間の労働そのものはなくならないではないか等々、多くの参加者から意見が出ました。

(説明)の所では、第1節の説明自体には質問等は出ませんでした。23章で問題にされる相対的過剰人口に関しては、就職氷河期の世代としてとても胸に刺さる、就職できるかできないかは個人の「選択」の問題ではなくてまさに資本主義のロジックの問題と思った、という意見が出ました。全体としての質疑では、不変資本と可変資本の違いは何かという質問が出て、参加者から大まかな説明がありました。また新しい参加者からは、若い頃に読んだだけだが資本論はこの社会の本質をつく大事な古典だと思っている、という感想が出ました。

 

当日配布した、価値形態のプリントでのチューターの説明が一面的だった(商品生産の社会性を強調するあまり、その基礎が私的生産であることとの矛盾の指摘が浅かった)と思い、後日参考資料として久留間鮫造の商品生産の特殊な性格と価値の本質」についての注釈をメールしました。質問などあれば出してください。

今回は復習として「価格」について大まかな説明を予定していましたが、先送りして以前から要望のあった『資本論』の“概説書”を資料として紹介することにします(岡崎次郎著、『資本論入門』、国民文庫)。何ごとも疑問をもつことが理解の始まりだとチューターは思うので“概説”はどうかとも思うのですが、当該部分までをプリントしたものを当日お渡しします。持ち帰って参考にしていただいて、質問などがあれば答える形にさせてください。《資本の生産過程は、労働力に転化した価値の自己増殖過程である》(P98)といった指摘などは、当たり前といえば当たり前ですがとても良い指摘のように思います。

会で【復習】として出したものも参考にしてください。

 

 

説明 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」 の2回目

第2節 蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少

 

. 労働の生産性の増加は、生産手段量に比べての労働量の減少に現われる。資本の蓄積とともに、その価値構成における可変資本部分に比べての不変資本部分の増大が法則となる

 

・「……これまで我々はこの<蓄積の>過程の一つの特殊な局面だけを見てきた。すなわち、<労働者にとっての有利な局面である>資本の技術的<素材的>構成が不変のままで資本の増大<蓄積>が生ずるという局面である。だが、過程はこの局面を越えて進む。

資本主義的体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最も強力な槓杆となる点が必ず現れる……

土地の豊度などのような自然条件を別とすれば、また単独で労働する独立生産者の技能……を別とすれば、労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が<労働力として>機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……とはいえ、条件であろうと結果であろうと、生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである

このような資本の技術的<素材的>構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲にしての不変成分の増大に、反映する。……。この、可変資本部分に比べて不変資本部分がだんだん増大していくという法則は、商品価格の比較分析によって(すでに展開されたように)一歩ごとに確証される……消費される生産手段の価値すなわち不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう。」(全集版、P811~813)

 

この部分でマルクスは二つの注意を与えています。ひとつは、労働の生産性の上昇につれて労働の消費する生産手段の規模は増大するが、しかしその規模に比べてその価値は低下する、という点。二つには、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、その絶対量の増大を排除するものではない、という点です。

 

. 第11章で触れられたように、多数の労働者の協業は資本主義的生産の出発点である。手工業から資本主義的生産に移るためには個人の手に一定程度の本源的な蓄積が必要となる

 

・「第4篇<「相対的剰余価値の生産」は、第10章「相対的剰余価値の概念」、第11章「協業」、12章「分業とマニュファクチュア」、13章「機械と大工業」からなる>で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提し、ただこの前提の下でのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生み出すことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる。@

商品生産では生産手段は私人の所有であり、したがって手の労働者は単独で独立に商品を生産するか、または自己経営のための手段を持っていなければ自分の労働力を商品として売るのであるが、このような商品生産という基礎の上では、かの<大規模の協業という>前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されていくのにつれて、実現される。<私的所有・私的経営に基づく>商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ<労働力の搾取による剰余価値の生産という>資本主義的形態においてのみ担うことができる。したがって、個々の商品生産者の手の中でのある程度の資本の蓄積が、<生産力の増大による相対的剰余価値の生産という>独自な資本主義的生産様式の前提になるのである。それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行に際しては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積と呼ばれてよい。なぜならば、それは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的基礎だからである。このような<本源的な>蓄積そのものがどうして生ずるかは、ここではまだ研究しなくてもよい。とにかく、それが出発点なのである。」(同、P814)

 

この本源的蓄積については、次の第24章で詳しく述べられることになります。

 

 

. 社会的生産力を増大させる方法は、同時に、資本による資本の生産の方法またはその加速的蓄積の方法である。資本蓄積と相対的剰余価値の生産の進展は、資本の素材的構成の変化とその価値成分のうちの可変資本部分の相対的減少を呼び起こす

 

・「しかし、この<個人の手の中へのある程度の資本蓄積という>基礎の上で成長するところの、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、全て、同時にまた剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身また蓄積の形成要素である。だから、この<社会的生産力増大の>方法は、同時に、資本による資本の生産の方法、または資本の加速的蓄積の方法である剰余価値から資本への連続的な再転化は、生産過程に入る資本の量が増大していくこととして現われる。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それに伴う労働の生産力の増大方法の基礎となり、剰余価値の加速的生産の基礎となる。こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的<素材的>構成の変化を生み出すのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。」(同、P814~815)

 

 

. 資本の蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の社会的な増大として現われるが、他方では多数の個別資本への分裂と反発として現われる

 

・「各個の資本は生産手段の大なり小なりの集積であって、その大小に応じて大なり小なりの労働者軍の指揮権を持っている。どの蓄積も新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手の中でのこの富の集積を拡大し、したがって大規模生産と独自な資本主義的生産方法との基礎を拡大する。@

<商品生産の地盤では>社会的資本の増大は多数の個別資本の増大によって行なわれる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の可除部分をなしている割合に応じて増大する。同時に、元の資本から若枝が分かれて、新しい独立な資本として機能する。その際、とりわけ、資本家の家族の間での財産の分割は、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積につれて資本家の数も多かれ少なかれ増えるのである。@

このような<生産手段の>集積は、直接に蓄積に基づくものであり、またはむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手の中での社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大の程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに配分されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対しているだから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行なわれているのである。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発として現われるのである。」(同、P815~816)

 

 

. 資本の吸引=集中は、そのたんなる蓄積=集積とは違って、すでに機能している資本の配分を変えるだけであり、社会の富の増加を前提するものではない

 

・「このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発に対しては、この諸部分の吸引<集中>が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。@

この過程を第一の<集積の>過程から区別するものは、この<集中による集積>過程はただ既に存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということである。一方で資本が一つの手の中で大きな塊に膨れ上がるのは、他方で多くの手の中から資本が無くなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。」(同、P816~)

 

 

. 資本の集中の経過についてのマルクスの概説、集中の強力な槓杆としての競争と信用。追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せ、他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出す

 

マルクスは、資本の生産過程の考察では資本の集中の法則性(必然性)については論じられないと言いながらも、次のようにその経過を概括しています。ここでは資本の集中における「強力な槓杆」として競争と信用の役割が強調されています。

 

・「このような諸資本の集中または資本による資本の吸引の諸法則をここで展開することはできない。事実を簡単に示唆しておくだけで十分である。@

<個別資本による>競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件の下で営むために必要な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対しあう諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手に入り、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つの全く新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそり入ってきて、社会の表面に大小さまざまな量で散らばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での一つの新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。

資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆が、発展する。@

それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望を創り出し、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段を創り出す。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。@

しかし<資本の>集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の進展は決して社会的<総>資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現である集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的<総>資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。<集中においては、>一方で資本が一つの手の中で巨大な塊に膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。仮にある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模の拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようと──<合併>この場合には幾つかの資本が他の諸資本に対して優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集を壊して、次にバラバラになった破片を自分の方に引き寄せる──、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働を一層包括的に組織するための、その物質的推進力を一層広く発展させるための、すなわち、個々バラバラに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸次的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、全く緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的<素材的>構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働に対する相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といっても一層速く、再生産され増殖され、こうして<資本の>社会的蓄積の新しい強力な槓杆となる。だから、<資本の>社会的蓄積の進展という場合には、そこには──今日では──集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本(第22章第1節を見よ)は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒介として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くに機械や原料を動かすのに前より少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によって既に大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな<技術的・素材的>構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。」(同、P816~819)

 

 

「読む会」だより(2月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

1月の「読む会」は18日に開催されました。

(前月の議論)の所では、価格現象の背後に隠されているものという部分での参加者の意見を、チューターが別の部分での意見と取り違えて書いたようです。すみませんでした。また、労働の配分が商品価値の変動を通じて規制されるという点については、価値法則の貫徹がそのような形で現われると思っているという意見が出ました。

当日配布した価値形態についてのプリントに対しては、労働価値説に立つならばAIなどの進展が進めば人間労働そのものがなくなってしまうのではないか、という質問が出ました。チューターは、資本主義の発展は分業の発展としてあるし、その中の一部分が自動化されたからといって人間が自然を変革して自らの有用物とするという関係自体は変わるものではないのではないかと答えました。参加者からは、世界的といえる企業の下請けで働いていて、たしかに非常に自動化され計画化されている部分もあるが、採算性のとれない所などは人間任せにするという逆の部分もある。そうした自動化は人間労働が無くなるという問題ではなくて、資本主義の下では労働者の一部分が労働から排除されるということではないか、という意見が出ました。

この問題に対しては、ホワイトカラーであったプログラマーが仕事を無くしてブルーカラーの配管工になるなどの例も聞くとか、医療の現場でもロボット化やAIの利用が進んでいるが根本は人間ではないか、また人間の労働そのものはなくならないではないか等々、多くの参加者から意見が出ました。

(説明)の所では、第1節の説明自体には質問等は出ませんでした。23章で問題にされる相対的過剰人口に関しては、就職氷河期の世代としてとても胸に刺さる、就職できるかできないかは個人の「選択」の問題ではなくてまさに資本主義のロジックの問題と思った、という意見が出ました。全体としての質疑では、不変資本と可変資本の違いは何かという質問が出て、参加者から大まかな説明がありました。また新しい参加者からは、若い頃に読んだだけだが資本論はこの社会の本質をつく大事な古典だと思っている、という感想が出ました。

 

当日配布した、価値形態のプリントでのチューターの説明が一面的だった(商品生産の社会性を強調するあまり、その基礎が私的生産であることとの矛盾の指摘が浅かった)と思い、後日参考資料として久留間鮫造の商品生産の特殊な性格と価値の本質」についての注釈をメールしました。質問などあれば出してください。

今回は復習として「価格」について大まかな説明を予定していましたが、先送りして以前から要望のあった『資本論』の“概説書”を資料として紹介することにします(岡崎次郎著、『資本論入門』、国民文庫)。何ごとも疑問をもつことが理解の始まりだとチューターは思うので“概説”はどうかとも思うのですが、当該部分までをプリントしたものを当日お渡しします。持ち帰って参考にしていただいて、質問などがあれば答える形にさせてください。《資本の生産過程は、労働力に転化した価値の自己増殖過程である》(P98)といった指摘などは、当たり前といえば当たり前ですがとても良い指摘のように思います。

会で【復習】として出したものも参考にしてください。

 

 

説明 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」 の2回目

第2節 蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少

 

. 労働の生産性の増加は、生産手段量に比べての労働量の減少に現われる。資本の蓄積とともに、その価値構成における可変資本部分に比べての不変資本部分の増大が法則となる

 

・「……これまで我々はこの<蓄積の>過程の一つの特殊な局面だけを見てきた。すなわち、<労働者にとっての有利な局面である>資本の技術的<素材的>構成が不変のままで資本の増大<蓄積>が生ずるという局面である。だが、過程はこの局面を越えて進む。

資本主義的体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最も強力な槓杆となる点が必ず現れる……

土地の豊度などのような自然条件を別とすれば、また単独で労働する独立生産者の技能……を別とすれば、労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が<労働力として>機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……とはいえ、条件であろうと結果であろうと、生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである

このような資本の技術的<素材的>構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲にしての不変成分の増大に、反映する。……。この、可変資本部分に比べて不変資本部分がだんだん増大していくという法則は、商品価格の比較分析によって(すでに展開されたように)一歩ごとに確証される……消費される生産手段の価値すなわち不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう。」(全集版、P811~813)

 

この部分でマルクスは二つの注意を与えています。ひとつは、労働の生産性の上昇につれて労働の消費する生産手段の規模は増大するが、しかしその規模に比べてその価値は低下する、という点。二つには、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、その絶対量の増大を排除するものではない、という点です。

 

. 第11章で触れられたように、多数の労働者の協業は資本主義的生産の出発点である。手工業から資本主義的生産に移るためには個人の手に一定程度の本源的な蓄積が必要となる

 

・「第4篇<「相対的剰余価値の生産」は、第10章「相対的剰余価値の概念」、第11章「協業」、12章「分業とマニュファクチュア」、13章「機械と大工業」からなる>で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提し、ただこの前提の下でのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生み出すことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる。@

商品生産では生産手段は私人の所有であり、したがって手の労働者は単独で独立に商品を生産するか、または自己経営のための手段を持っていなければ自分の労働力を商品として売るのであるが、このような商品生産という基礎の上では、かの<大規模の協業という>前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されていくのにつれて、実現される。<私的所有・私的経営に基づく>商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ<労働力の搾取による剰余価値の生産という>資本主義的形態においてのみ担うことができる。したがって、個々の商品生産者の手の中でのある程度の資本の蓄積が、<生産力の増大による相対的剰余価値の生産という>独自な資本主義的生産様式の前提になるのである。それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行に際しては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積と呼ばれてよい。なぜならば、それは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的基礎だからである。このような<本源的な>蓄積そのものがどうして生ずるかは、ここではまだ研究しなくてもよい。とにかく、それが出発点なのである。」(同、P814)

 

この本源的蓄積については、次の第24章で詳しく述べられることになります。

 

 

. 社会的生産力を増大させる方法は、同時に、資本による資本の生産の方法またはその加速的蓄積の方法である。資本蓄積と相対的剰余価値の生産の進展は、資本の素材的構成の変化とその価値成分のうちの可変資本部分の相対的減少を呼び起こす

 

・「しかし、この<個人の手の中へのある程度の資本蓄積という>基礎の上で成長するところの、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、全て、同時にまた剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身また蓄積の形成要素である。だから、この<社会的生産力増大の>方法は、同時に、資本による資本の生産の方法、または資本の加速的蓄積の方法である剰余価値から資本への連続的な再転化は、生産過程に入る資本の量が増大していくこととして現われる。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それに伴う労働の生産力の増大方法の基礎となり、剰余価値の加速的生産の基礎となる。こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的<素材的>構成の変化を生み出すのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。」(同、P814~815)

 

 

. 資本の蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の社会的な増大として現われるが、他方では多数の個別資本への分裂と反発として現われる

 

・「各個の資本は生産手段の大なり小なりの集積であって、その大小に応じて大なり小なりの労働者軍の指揮権を持っている。どの蓄積も新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手の中でのこの富の集積を拡大し、したがって大規模生産と独自な資本主義的生産方法との基礎を拡大する。@

<商品生産の地盤では>社会的資本の増大は多数の個別資本の増大によって行なわれる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の可除部分をなしている割合に応じて増大する。同時に、元の資本から若枝が分かれて、新しい独立な資本として機能する。その際、とりわけ、資本家の家族の間での財産の分割は、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積につれて資本家の数も多かれ少なかれ増えるのである。@

このような<生産手段の>集積は、直接に蓄積に基づくものであり、またはむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手の中での社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大の程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに配分されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対しているだから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行なわれているのである。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発として現われるのである。」(同、P815~816)

 

 

. 資本の吸引=集中は、そのたんなる蓄積=集積とは違って、すでに機能している資本の配分を変えるだけであり、社会の富の増加を前提するものではない

 

・「このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発に対しては、この諸部分の吸引<集中>が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。@

この過程を第一の<集積の>過程から区別するものは、この<集中による集積>過程はただ既に存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということである。一方で資本が一つの手の中で大きな塊に膨れ上がるのは、他方で多くの手の中から資本が無くなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。」(同、P816~)

 

 

. 資本の集中の経過についてのマルクスの概説、集中の強力な槓杆としての競争と信用。追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せ、他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出す

 

マルクスは、資本の生産過程の考察では資本の集中の法則性(必然性)については論じられないと言いながらも、次のようにその経過を概括しています。ここでは資本の集中における「強力な槓杆」として競争と信用の役割が強調されています。

 

・「このような諸資本の集中または資本による資本の吸引の諸法則をここで展開することはできない。事実を簡単に示唆しておくだけで十分である。@

<個別資本による>競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件の下で営むために必要な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対しあう諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手に入り、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つの全く新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそり入ってきて、社会の表面に大小さまざまな量で散らばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での一つの新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。

資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆が、発展する。@

それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望を創り出し、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段を創り出す。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。@

しかし<資本の>集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の進展は決して社会的<総>資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現である集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的<総>資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。<集中においては、>一方で資本が一つの手の中で巨大な塊に膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。仮にある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模の拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようと──<合併>この場合には幾つかの資本が他の諸資本に対して優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集を壊して、次にバラバラになった破片を自分の方に引き寄せる──、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働を一層包括的に組織するための、その物質的推進力を一層広く発展させるための、すなわち、個々バラバラに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸次的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、全く緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的<素材的>構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働に対する相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といっても一層速く、再生産され増殖され、こうして<資本の>社会的蓄積の新しい強力な槓杆となる。だから、<資本の>社会的蓄積の進展という場合には、そこには──今日では──集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本(第22章第1節を見よ)は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒介として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くに機械や原料を動かすのに前より少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によって既に大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな<技術的・素材的>構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。」(同、P816~819)

 

 

「読む会」だより(2月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

1月の「読む会」は18日に開催されました。

(前月の議論)の所では、価格現象の背後に隠されているものという部分での参加者の意見を、チューターが別の部分での意見と取り違えて書いたようです。すみませんでした。また、労働の配分が商品価値の変動を通じて規制されるという点については、価値法則の貫徹がそのような形で現われると思っているという意見が出ました。

当日配布した価値形態についてのプリントに対しては、労働価値説に立つならばAIなどの進展が進めば人間労働そのものがなくなってしまうのではないか、という質問が出ました。チューターは、資本主義の発展は分業の発展としてあるし、その中の一部分が自動化されたからといって人間が自然を変革して自らの有用物とするという関係自体は変わるものではないのではないかと答えました。参加者からは、世界的といえる企業の下請けで働いていて、たしかに非常に自動化され計画化されている部分もあるが、採算性のとれない所などは人間任せにするという逆の部分もある。そうした自動化は人間労働が無くなるという問題ではなくて、資本主義の下では労働者の一部分が労働から排除されるということではないか、という意見が出ました。

この問題に対しては、ホワイトカラーであったプログラマーが仕事を無くしてブルーカラーの配管工になるなどの例も聞くとか、医療の現場でもロボット化やAIの利用が進んでいるが根本は人間ではないか、また人間の労働そのものはなくならないではないか等々、多くの参加者から意見が出ました。

(説明)の所では、第1節の説明自体には質問等は出ませんでした。23章で問題にされる相対的過剰人口に関しては、就職氷河期の世代としてとても胸に刺さる、就職できるかできないかは個人の「選択」の問題ではなくてまさに資本主義のロジックの問題と思った、という意見が出ました。全体としての質疑では、不変資本と可変資本の違いは何かという質問が出て、参加者から大まかな説明がありました。また新しい参加者からは、若い頃に読んだだけだが資本論はこの社会の本質をつく大事な古典だと思っている、という感想が出ました。

 

当日配布した、価値形態のプリントでのチューターの説明が一面的だった(商品生産の社会性を強調するあまり、その基礎が私的生産であることとの矛盾の指摘が浅かった)と思い、後日参考資料として久留間鮫造の商品生産の特殊な性格と価値の本質」についての注釈をメールしました。質問などあれば出してください。

今回は復習として「価格」について大まかな説明を予定していましたが、先送りして以前から要望のあった『資本論』の“概説書”を資料として紹介することにします(岡崎次郎著、『資本論入門』、国民文庫)。何ごとも疑問をもつことが理解の始まりだとチューターは思うので“概説”はどうかとも思うのですが、当該部分までをプリントしたものを当日お渡しします。持ち帰って参考にしていただいて、質問などがあれば答える形にさせてください。《資本の生産過程は、労働力に転化した価値の自己増殖過程である》(P98)といった指摘などは、当たり前といえば当たり前ですがとても良い指摘のように思います。

会で【復習】として出したものも参考にしてください。

 

 

説明 第23章 「資本主義的蓄積の一般的法則」 の2回目

第2節 蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少

 

. 労働の生産性の増加は、生産手段量に比べての労働量の減少に現われる。資本の蓄積とともに、その価値構成における可変資本部分に比べての不変資本部分の増大が法則となる

 

・「……これまで我々はこの<蓄積の>過程の一つの特殊な局面だけを見てきた。すなわち、<労働者にとっての有利な局面である>資本の技術的<素材的>構成が不変のままで資本の増大<蓄積>が生ずるという局面である。だが、過程はこの局面を越えて進む。

資本主義的体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最も強力な槓杆となる点が必ず現れる……

土地の豊度などのような自然条件を別とすれば、また単独で労働する独立生産者の技能……を別とすれば、労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が<労働力として>機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……とはいえ、条件であろうと結果であろうと、生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである

このような資本の技術的<素材的>構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲にしての不変成分の増大に、反映する。……。この、可変資本部分に比べて不変資本部分がだんだん増大していくという法則は、商品価格の比較分析によって(すでに展開されたように)一歩ごとに確証される……消費される生産手段の価値すなわち不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう。」(全集版、P811~813)

 

この部分でマルクスは二つの注意を与えています。ひとつは、労働の生産性の上昇につれて労働の消費する生産手段の規模は増大するが、しかしその規模に比べてその価値は低下する、という点。二つには、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、その絶対量の増大を排除するものではない、という点です。

 

. 第11章で触れられたように、多数の労働者の協業は資本主義的生産の出発点である。手工業から資本主義的生産に移るためには個人の手に一定程度の本源的な蓄積が必要となる

 

・「第4篇<「相対的剰余価値の生産」は、第10章「相対的剰余価値の概念」、第11章「協業」、12章「分業とマニュファクチュア」、13章「機械と大工業」からなる>で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提し、ただこの前提の下でのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生み出すことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる。@

商品生産では生産手段は私人の所有であり、したがって手の労働者は単独で独立に商品を生産するか、または自己経営のための手段を持っていなければ自分の労働力を商品として売るのであるが、このような商品生産という基礎の上では、かの<大規模の協業という>前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されていくのにつれて、実現される。<私的所有・私的経営に基づく>商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ<労働力の搾取による剰余価値の生産という>資本主義的形態においてのみ担うことができる。したがって、個々の商品生産者の手の中でのある程度の資本の蓄積が、<生産力の増大による相対的剰余価値の生産という>独自な資本主義的生産様式の前提になるのである。それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行に際しては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積と呼ばれてよい。なぜならば、それは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的基礎だからである。このような<本源的な>蓄積そのものがどうして生ずるかは、ここではまだ研究しなくてもよい。とにかく、それが出発点なのである。」(同、P814)

 

この本源的蓄積については、次の第24章で詳しく述べられることになります。

 

 

. 社会的生産力を増大させる方法は、同時に、資本による資本の生産の方法またはその加速的蓄積の方法である。資本蓄積と相対的剰余価値の生産の進展は、資本の素材的構成の変化とその価値成分のうちの可変資本部分の相対的減少を呼び起こす

 

・「しかし、この<個人の手の中へのある程度の資本蓄積という>基礎の上で成長するところの、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、全て、同時にまた剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身また蓄積の形成要素である。だから、この<社会的生産力増大の>方法は、同時に、資本による資本の生産の方法、または資本の加速的蓄積の方法である剰余価値から資本への連続的な再転化は、生産過程に入る資本の量が増大していくこととして現われる。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それに伴う労働の生産力の増大方法の基礎となり、剰余価値の加速的生産の基礎となる。こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的<素材的>構成の変化を生み出すのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。」(同、P814~815)

 

 

. 資本の蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の社会的な増大として現われるが、他方では多数の個別資本への分裂と反発として現われる

 

・「各個の資本は生産手段の大なり小なりの集積であって、その大小に応じて大なり小なりの労働者軍の指揮権を持っている。どの蓄積も新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手の中でのこの富の集積を拡大し、したがって大規模生産と独自な資本主義的生産方法との基礎を拡大する。@

<商品生産の地盤では>社会的資本の増大は多数の個別資本の増大によって行なわれる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の可除部分をなしている割合に応じて増大する。同時に、元の資本から若枝が分かれて、新しい独立な資本として機能する。その際、とりわけ、資本家の家族の間での財産の分割は、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積につれて資本家の数も多かれ少なかれ増えるのである。@

このような<生産手段の>集積は、直接に蓄積に基づくものであり、またはむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手の中での社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大の程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに配分されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対しているだから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行なわれているのである。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発として現われるのである。」(同、P815~816)

 

 

. 資本の吸引=集中は、そのたんなる蓄積=集積とは違って、すでに機能している資本の配分を変えるだけであり、社会の富の増加を前提するものではない

 

・「このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発に対しては、この諸部分の吸引<集中>が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。@

この過程を第一の<集積の>過程から区別するものは、この<集中による集積>過程はただ既に存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということである。一方で資本が一つの手の中で大きな塊に膨れ上がるのは、他方で多くの手の中から資本が無くなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。」(同、P816~)

 

 

. 資本の集中の経過についてのマルクスの概説、集中の強力な槓杆としての競争と信用。追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せ、他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出す

 

マルクスは、資本の生産過程の考察では資本の集中の法則性(必然性)については論じられないと言いながらも、次のようにその経過を概括しています。ここでは資本の集中における「強力な槓杆」として競争と信用の役割が強調されています。

 

・「このような諸資本の集中または資本による資本の吸引の諸法則をここで展開することはできない。事実を簡単に示唆しておくだけで十分である。@

<個別資本による>競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件の下で営むために必要な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対しあう諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手に入り、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つの全く新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそり入ってきて、社会の表面に大小さまざまな量で散らばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での一つの新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。

資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆が、発展する。@

それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望を創り出し、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段を創り出す。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。@

しかし<資本の>集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の進展は決して社会的<総>資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現である集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的<総>資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。<集中においては、>一方で資本が一つの手の中で巨大な塊に膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。仮にある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模の拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようと──<合併>この場合には幾つかの資本が他の諸資本に対して優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集を壊して、次にバラバラになった破片を自分の方に引き寄せる──、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働を一層包括的に組織するための、その物質的推進力を一層広く発展させるための、すなわち、個々バラバラに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸次的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、全く緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的<素材的>構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働に対する相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といっても一層速く、再生産され増殖され、こうして<資本の>社会的蓄積の新しい強力な槓杆となる。だから、<資本の>社会的蓄積の進展という場合には、そこには──今日では──集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本(第22章第1節を見よ)は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒介として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くに機械や原料を動かすのに前より少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によって既に大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな<技術的・素材的>構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。」(同、P816~819)

 

 

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