復習6 機械制大工業の意義

 

【復習6】 機械制大工業の意義

──生産力を増大することで相対的剰余価値を取得するという、あるいは生産の技術的基礎とともに、労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革するという、資本主義に独自な生産様式は、機械制大工業によって基礎づけられた

 

(1. 発達した労働用具である機械がもつ物質的な属性・役割《生産力増大の物質的担い手である》と、その社会的属性すなわち機械が資本主義的な“環境”の下で充用される場合の属性・役割《剰余価値を生産する手段となる》とは、区別されなければならない)

 

・「ジョン・スチュアート・ミルは、その著書『経済学原理』のなかで次のように言っている。

『すべてのこれまでになされた機械の発明が、どの人間かの毎日の労苦を軽くしたかどうかは疑問である。』

だが、このようなことは決して資本主義的に使用される機械の目的ではないのである。そのほかの労働の生産力の発展がどれでもそうであるように、機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものなのである。それは剰余価値を生産するための手段なのである。」(13章「大工業と機械」、全集版、P485)

 

労働手段である機械は、「一定の諸関係の下でのみ」(『賃労働と資本』)資本となります。剰余価値の生産のための手段としてそれを利用するという社会関係から切り離すならば、機械はただの労働手段であり、人間自身のもつ労働力と区別される、生産力の物質的担い手であるという属性を持つのみです。しかしながら機械は、単なる労働手段=“物”として存在するばかりではありません。それは投下された既存の「価値」(不変資本部分)の一部分としても存在しています。それは労働の客体的条件として、もう一方の可変資本部分が労働の主体的条件である労働力に転換されることで、つまりこの社会ではこの二つの条件が資本の諸部分として結合されることではじめて生産が実行されます。そしてこうした関係の下で、機械は労働者から既存価値以上の労働を吸収して、既存価値を増大させるための手段になる、という資本属性を獲得するのです

労働手段である機械の発達は、“可能的には”労働者の労苦を軽くしうるのですが、賃労働と資本という社会関係のなかでは、それは剰余価値の生産のための手段=資本として利用されるために、むしろ労働者の労苦をいっそう増加させる手段となるのです。こうした矛盾の解決は、言うまでもなく生産手段を社会的共有に移し、商品生産を止揚することによってのみ可能ですが、こうした意識もまた現実の矛盾の中で育っていくほかはありません。

 

 

(2. 生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力の変革を出発点とし、大工業では労働手段の変革を出発点とする。機械による機械の生産によって、大工業は手工業的労働から解放される。機械体系すなわち機械を基礎にする分業は、労働過程の社会的共同性格を拡大・深化させる

 

・「生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする……

産業革命の出発点なる機械は、ただ一個の道具を取り扱う労働者の代わりに一つの機構をもってくるのであるが、この機構は一時に多数の同一または同種の道具を用いて作業し、またその形態がどうであろうと単一な原動力によって動かされるものである。ここにわれわれは機械を、といってもまだ機械的生産の単純な要素として、もつのである。」(同、P486)

 

・「まず道具が人間という有機体の道具から一つの機械装置の、すなわち道具機の道具に転化されてから、次には原動機もまた一つの独立な、人力の限界からは完全に解放された形態を与えられた。同時に、これまで考察してきたような個々の道具機は、機械的生産の単なる一要素に成り下がる。いまや一つの原動機が多数の作業機を同時に動かすことができるようになった。同時に動かされる作業機の数が増すにつれて、この原動機も大きくなり、そして伝動機構は巨大な装置に広がるのである。……

機械の体系は……、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる。」(同、P494~)

 

・「機械としては労働手段は、人力の代わりに自然力を利用し経験的熟練の代わりに自然科学の意識的応用に頼ることを必然的にするような物質的存在様式を受け取る。マニュファクチュアでは社会的労働過程の編成は純粋に主観的であり、部分労働者の組み合わせである。機械体系では大工業は一つのまったく客観的な生産有機体をもつのであって、これを労働者は既成の物質的生産条件として自分の前に見いだすのである

単純な協業では、また分業によって特殊化された協業の場合さえも、個別的な労働者が社会化された労働者によって駆逐されるということは、まだ多かれ少なかれ偶然的なこととして現われる。機械は、のちに述べるいくつかの例外を除いては、直接に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、<機械という>労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである」(同、P503)

 

中世的な個々独立した手工業的生産様式を変革したのは一人の資本家の下での分業に基づく協業=マニュファクチュアでした。それは手工業的労働を諸部分に分解しましたが、その個々の部分はやはり労働者の熟練に基礎を置いており、そこでの労働は、人間の自然的・肉体的な限界をもった部分労働者が“集合”して、一つの“全体労働者”として手工業的な道具を使うことでした。ところが機械を基礎にする大工業は、労働力自身ではなくて、労働対象への働きかけを媒介する労働手段を変革することによって、労働における人間の自然的・肉体的限界を“技術的に”廃棄したのです。それは社会的生産の規制的原理が、個人的労働から社会的労働へと置き換わったことを意味します。

この変革の出発点となる道具・作業機は、労働用具である機械自身が、労働者に代わって幾つかの労働用具を使って「働く」もの、すなわち道具を使う道具でした。これによって労働者の自然的・肉体的活動は機械によって置き換え可能なものとなり、労働の生産力は飛躍的に増大しましたが、同時に、生産における合目的的精神的活動は労働者自身ではなくて機械を保有する資本家(と支配階級)の専有事項となり、労働者は機械が運動を続けるための付属品の地位にまで貶められることになります

機械と大工業は、ことにそれが機械によって機械をつくるという技術的基礎を確立するとともに、その他の部門をも自らの影響下に置き、社会的生産をその全範囲にわたって捉え、資本主義的な生産を全世界に押しひろげる物質的基礎をなしていくのです。

どんな社会にあっても、生産はその主体的条件である労働力と、客体的条件である生産手段(労働手段と労働対象)とが結び付くことで行われます。ところが資本主義の下ではこの二つの条件がそれぞれ“商品”として、生産そのものとは独立して存在しています。だからそれぞれは、資本家の貨幣を介して流通から引き上げられ、資本家の投下資本(原価値)の諸部分(可変資本部分と不変資本部分)となることで、はじめて結び付き、生産が可能となるのです。これが資本主義における生産の歴史的な特徴だと言えるでしょう。そしてこうした条件を利用して、既存の価値が労働力を搾取する(剰余価値を取得する)ことで自己増殖していく(すなわち資本になる)という資本主義的な生産が行われるのですが、機械と大工業はそれを全面的に拡大するのです。

また機械の使用の限界は、一般的には機械自身の生産に必要な労働量が、機械の充用によって代わられる労働量よりも少ないということのうちに与えられています。しかし資本が労働力の使用に代わって機械を使用する際の条件・限界は、それよりも狭く、機械の価値がそれによって代わられる“労働力の価値”よりも少ないことによって与えられます。このため、ある部門での機械の使用は、他部門での労賃の価値以下への低下とそれに伴う労働の乱費を引き起こす等々といった、資本主義ならではの機械利用の法則性が現われます。現代においても機械利用の資本主義的な限界と、人力の乱費はマルクスの当時と変わるところはありません。

 

 

(3. 機械が労働過程の主体となって労働者=人間を従属させることこれが労働手段である機械の資本主義的充用工場制度──社会関係としての──の特徴である。人間がではなくて機械が道具を使うことによって、生産力は人間の個人的、肉体的限界から解放されたが、それは同時に、労働の均等化や無内容化の傾向をもたらす

 

・「ドクター・ユア、この自動式工場のピンダロス<古代ギリシアの詩人で祝勝歌が有名>は、この工場を一方では『絶え間なく一つの中心力(原動力)によって活動させられる一つの生産的機械体系を技能と勤勉とをもって見張る成年および未成年の各種の労働者の協業として描き、他方では同じ一つの対象を生産するために協調して絶え間なく働いており、したがってすべてが一つの自動的に運動する動力に従属している無数の機械的で自己意識的な器官とから構成されている一つの巨大な自動装置として描いている。

この二つの表現はけっして同じではない。一方<前者>の表現では、結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置が客体として現われる。他方<後者>の表現では、自動装置そのものが主体であり、労働者はただある意識のある器官として自動装置の意識のない器官と並列させられ、この器官といっしょに中心的動力に従属させられているだけである。

<結合した労働者が主体となる>第一の表現は、大規模な機械の充用が可能なかぎりそのどれにでもあてはまるものであり、<結合された機械が主体としてふるまう>第二の表現は、機械の資本主義的充用を、したがってまた現代の工場制度を特徴づけている」(同、P548)

 

工場“制度”、それは単に機械が付属している建物(“物”)なのではありません。それは人々が生産手段である機械に使われるという転倒した生産関係であり、一つの社会“制度”でもあります。それは、工場内部での労働者の大規模な協業や統制を持つと同時に、社会全体における生産の集中と部門分割、あるいは都市への労働者の集中といった社会的な内容を包括した生産関係を表現するのです。

第5章第1節では、「何がつくられるかではなく、どのようにして<どのような労働の仕方で>、どんな労働手段で作られるかが、いろいろな経済的時代を区別する」と述べられていましたが、『哲学の貧困』にはこう述べられています。

……社会的諸関係は生産諸力と密接に連結する。新たな生産諸力を獲得するとともに、人間は彼らの生産様式を変更する。そして生産様式を、生活資料獲得方法を、変更するとともに、彼らはあらゆる彼らの社会的諸関係を変更する。手曳臼は封建君主の存在する社会を生み、蒸気臼は産業資本家の見出される社会を生ぜしめるであろう。」(岩波文庫版、P117)。

「労働は、その用いる用具の何たるかにしたがって、組織や分割の仕方が異なってくる。手曳臼は蒸気臼とは異なった分業を前提とする。……機械がもはや一つの経済的範疇でないのは、犂を曳く牛がそうでないのと異ならない。機械は一つの生産力<の物質的担い手>にすぎない。しかし機械の応用に基礎を置く近代的工場は、一つの社会的生産関係であり、一つの経済的範疇である」(同、P147)。

 

・「作業道具といっしょに、それを取り扱う手練も労働者から機械に移る。道具の仕事能力は人間労働力の個人的な限界から解放される。こうして、マニュファクチュアのなかでの分業がもとづいている技術的基礎が廃棄されるしたがって、マニュファクチュアを特徴づけている専門化された労働者の等級制に代わって、自動的な工場では機械の助手たちがしなければならない労働の均等化または水平化の傾向が現われるのであり、部分労働者たちの人工的につくりだされた区別に代わって、年齢や自然的な区別のほうが主要なものになるのである

……機械設備全体そのものが、多様な、同時に働く、結合された諸機械の一つの体系をなしているかぎり、それにもとづく協業もまた、各種の労働者群を各種の機械のあいだに配分することを必要とする。しかし、機械経営は、同じ労働者を同じ機能に永続的に適合させることによってこの<労働>配分をマニュファクチュア的に固定する必要をなくしてしまう。工場の全運動が労働者からではなく機械から出発するのだからこそ、労働過程を中断することなしに絶えず人員交替を行なうことができるのである……」(同、P548~)

 

 

(4. 結合した機械体系に転化することによって、機械は生きている労働を搾取する資本の客観的・物質的存在となる。このため当初は労働者の闘いは機械そのものを攻撃の的とした。労働者が機械そのものに対してではなく、それを搾取の手段とする社会関係の変革を目指して闘うべきことを学ぶには、時間と経験が必要だった

 

・「マニュファクチュアや手工業では労働者が自分に道具を奉仕させ、工場では労働者が機械に奉仕する。前者では労働者から労働手段の運動が起こり、後者では労働手段の運動に労働者がついて行かなければならない。マニュファクチュアでは労働者たちは一つの生きている<生産>機構の手足になっている。工場では一つの死んでいる機構が労働者たちから独立して存在していて、彼らはこの機構に生きている付属物として合体されるのである……

機械労働は神経系統を極度に疲れさせると同時に、筋肉の多面的な働きを抑圧し、心身のいっさいの自由な活動を封じてしまう。労働の緩和さえも責め苦の手段になる。なぜならば機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するのだからである。@

資本主義的生産がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、<手工業的あるいはマニュファクチュア的であれ>どんな資本主義的生産にも労働者が<自らの必要のために>労働条件を使うのではなく逆に労働条件が<その価値増殖のために>労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は<労働者のほうがそれに仕えるという>機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである

一つの自動装置に転化することによって、労働手段は<労働過程の主体となり>労働過程そのもののなかでは資本として、生きている労働を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである……」(同、P551~)

 

・「資本家と賃金労働者との闘争は、資本関係そのもの<貨幣所有者による労働力の購買>とともに始まる。それは、マニュファクチュア<工場制手工業>時代の全体をつうじて荒れつづける。しかし、機械が採用されてからはじめて労働者は労働手段そのものに、この資本の物質的存在様式<資本の物質的基礎としての機械>に、挑戦するのである。彼は、資本主義的生産様式の物質的基礎としての、生産手段のこの特定の形態<価値増殖=剰余価値取得の手段として利用される機械>にたいして、反逆するのである。

……機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験が必要だったのである」(同、P559~)

 

 

(5. 機械制大工業がもたらした工場立法は社会の反作用であった。大工業の本質は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革することであるから、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性が必要となり、初等教育が児童労働の強制条件として宣言された。生産的労働を学業および体育と結びつけようとするこの教育は児童のみならず全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法である。大工業による生産様式の変革と生産力の発展は、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる

 

・「工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物である」(同、P626)

 

引用は省きますが、資本主義的な生産すなわち剰余価値の取得を目的とする生産が、労働力の搾取に他ならない限り、「労働者の肺結核やその他の肺病が資本の一つの生活条件である」(同)ということは、現代においても相も変らぬ真実です。しかしながら、機械と大工業がもたらす生産様式の絶えざる変革と生産力の増大は、同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させのです。

 

・「工場法の教育条項は全体としては貧弱に見えるとはいえ、それは初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は、教育および体育を筋肉労働と結びつけることの、したがってまた筋肉労働を教育および体育と結びつけることの、可能性をはじめて実証した。工場監督官たちはやがて学校教師の証人尋問から、工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業を受けていないのに、それと同じかまたはしばしばそれよりも多くを学んでいるということを発見した。……

……工場制度からは、われわれがロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽が出てきたのである。この教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもあるのである。

……近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。機械や化学的行程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本質は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態<利用形態>において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産する……これは消極面である

……大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口<労働予備軍>という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、一つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式として代わる代わる行なうような全体的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする……@

工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は<初等教育のみならず>理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。また同様に疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的関係<労働力の搾取による資本の価値増殖>はこのような変革の酵素<生産的労働と結び付いた教育による全体的に発達した個人の形成>と古い分業の廃棄というその<変革の酵素の>目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である」(同、P629~635)

 

・「労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように、矮小規模の分散的な労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進する

工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的に覆い隠している古風な形態や過渡形態をことごとく破壊して、その代わりに資本の直接のむき出しの支配をもってくる。したがってまた、それはこの支配にたいする直接の闘争をも一般化する。それは、個々の作業場では均等性、合則性、秩序、節約を強要するが、他方では、労働日の制限と規制とが技術に加える非常な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。それは、小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、したがってまた社会的機構全体の従来の安全弁をも破壊する

それ<工場立法の一般化>は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(同、P653~654)

 

 

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