復習4 不変資本と可変資本
【復習4】 不変資本と可変資本 について
① 資本主義的生産においては、労働過程は同時に価値形成過程である。
──資本主義的な商品の生産(剰余価値を含んだ商品の生産)は、使用価値の生産一般に共通する労働過程(労働そのものと労働対象ならびに労働手段という要素をもつ)を通じて行われる。しかしここでは、労働過程は単なる使用価値の生産(“物的”生産)ではなくて、同時に生産物を“商品”として──つまり価値(社会的必要労働時間)をもった抽象的な富(社会的労働の対象化)として──、生産する“社会的”過程でもある。労働過程が、労働力の再生産に必要な労働時間を越えて継続されることによって、価値形成過程は価値増殖過程に転化し、生産物の価値は剰余労働を含んだ分だけ増加する。生産物が商品として流通することを通じて、剰余労働は剰余価値として取得される──
・「いま価値形成過程と価値増殖過程とを比べてみれば、価値増殖過程は、ある一定の点を越えて延長された価値形成過程に他ならない。もし価値形成過程が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点までしか継続しなければ、それは単純な価値形成過程である。もし価値形成過程がこの点を越えて継続すれば、それは価値増殖過程になる。
さらに価値形成過程を労働過程と比べてみれば、後者は、使用価値を生産する有用労働によって成り立っている。運動はここ<労働過程>では質的に、その特殊な仕方において、目的と内容とによって、考察される。同じ労働過程が価値形成過程では<同質な抽象的人間労働に還元されて>ただその量的な面だけによって現われる。もはや問題になるのは、労働がその作業に必要とする時間、すなわち労働力が有用的に支出される継続時間だけである。ここ<価値形成過程>では、労働過程に入って行く諸商品も、もはや、合目的的に作用する労働力の機能的に規定された素材的な諸要因としては認められない。それらは、ただ対象化された労働の一定量として数えられるだけである。生産手段に含まれているにせよ労働力によって付け加えられるにせよ、労働はもはやその時間尺度によって数えられるだけである。それは何時間とか何日間とかいうようになる。」(第5章第2節、全集版、P256)
以前チューターは、価値増殖過程はまず価値形成過程として考察すべきだ云々、と口走ったかと思います。それ自体は間違いでないでしょうが、的外れでもありました。労働過程が“同時に”価値形成過程でもあるのは、商品交換に基礎を置く社会関係においては、使用価値を生み出すための労働過程は、価値を形成するという別の“社会的な機能”をももつ(生産物を価値を有する“商品”として生産する)からに他なりません。言い換えれば、労働過程は、特定の社会的形態を持った使用価値を生み出すものとして社会的にも規定されるからに他なりません。
② 前貸資本は、労働対象(原料)や労働手段のために支出される不変資本と、労賃として支出される可変資本とに区別される。価値増殖するのは後者のみであって前者はそのための条件となる。
──剰余価値の源泉は、労働者の機能つまりその剰余労働の対象化なのであって、機械などの労働手段の機能によるものではない(価値形成においては、原料は労働の吸収手段として、生産物は吸収された労働の計測器として役立つだけである)──
・「およそ生産手段<労働対象ならびに労働手段>として消費されるものは、その使用価値であって、これの消費によって労働は生産物を形成するのである。生産手段の価値は実際は消費されるのではなく、したがってまた再生産されることもできないのである。それは保存されるが、しかし、労働過程で価値そのものに操作が加えられるので保存されるのではなく、価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消失はするがしかしただ別の使用価値となってのみ消失するので保存されるのである。それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確にいえば、再生産されるのではない。生産されるものは、もとの交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である。
労働過程の主体的な要因、活動しつつある労働力のほうは、そうではない。労働がその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存する間に、その運動の各瞬間は追加価値を、新価値を形成する。仮に、労働者が自分の労働力の価値の等価を生産した点、たとえば6時間の労働によって3シリングの価値を付け加えた点で、生産過程が中断するとしよう。この価値は、生産物価値のうちの、生産手段から来た成分を越える超過分をなしている。それは、この過程の中で発生した唯一の本源的な価値であり、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分である。……しかし、それ<新価値>は現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産されているだけではない。ある価値<消費された労働力の価値>の他の価値<新たな生産物の価値>による補填は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのである。」(第6章、同、P271~)
・「要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。
これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともあり得る。資本のこの部分は一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化していく。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。<使用価値を生産する>労働過程の立場からは客体的な要因と主体的要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本部分が、<剰余価値を生産する>価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。」(同、P273)
個々の生産物の価値には、その生産物の生産のために支出された労働量のほかに、その生産手段の生産のために支出された労働量が“含まれ”ます。しかし後者は、生産過程において新たに“加えられた”ものではなく、ただ生産物の材料となっている生産手段に支出された労働量が、新たな生産物にとっての必要労働量として現われるものでしかありません(移転とか、保存とか、再現とか言っても同じですが)。労働力維持のための費用に転換され、生産過程においてその労働力の価値を越えて労働力を発揮し、生産物の価値を増加させうるのは、労賃として支出された可変資本部分のみなのです。
③ 剰余価値は、可変資本部分に起きる価値変化の結果でしかないが、目には見えるのは前貸資本の増殖という“結果”だけである。
──生産要素の価値は前貸資本の価値に等しい。これに対して生産物の価値の成分には、不変資本部分c、可変資本部分v、そして剰余価値部分mが含まれる。価値増殖の過程の考察のためには不変資本cをゼロと見なすことが有益である──
・「前貸しされた資本C<c+v>が生産過程で生み出した剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まず第一に、生産物の価値が<生産手段と労働力という>その生産要素の価値総額を越える超過分として現われる。
資本Cは<その生産要素に応じて>二つの部分に分かれる。すなわち、生産手段に支出される貨幣額cと、労働力に支出される別の貨幣額vとに分かれる。cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。@
そこで、最初は C=c+vであり、たとえば 前貸資本500ポンド=410ポンドc+90ポンドv である。生産過程の終わりには商品が出てくるが、その価値は (c+v)+m で、このmは剰余価値である。例えば、(410ポンドc+90ポンドv)+90ポンドm である。最初の資本CはC’に、500ポンドから590ポンドになった。この二つの額の差額はmであり、90ポンドという剰余価値である。……
我々が事実上すでに知っているように、剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかないのであり、したがって、 v+m=v+⊿v(v・プラス・vの増加分)である。ところが<このことは>、現実の<過程内での>価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変成分が増大するので前貸総資本もまた増大するということによって<前貸しされた総資本もまた、その変化する構成部分の増大の結果として増大するということによって……岩波文庫訳>、不明にされるのである。前貸総資本は500だったが、それが<過程の終わりには>590になる<という結果だけは目に見えるが、その構成部分ごとの作用の相違は見えるわけではない>。@
そこで<価値増殖の>過程の純粋な分析は、生産物価値のうちただ不変資本価値が再現するだけの部分を全く捨象すること、つまり不変資本cをゼロに等しいとすることを要求する……
不変資本をゼロに等しいとすることは、一見したところ奇妙に思われる。とはいえ、それは日常生活では人々がいつでもやっていることである。例えば、イギリスが綿工業であげる利益を計算しようとする人は、まず第一に、合衆国やインドやエジプトなどに支払われる綿花価格を引き去る。すなわち、彼は生産物価値のうちにただ再現するだけの資本価値をゼロに等しいとするのである。」(同、P276~)
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