復習3 労働力の搾取

 【復習3】 剰余価値の源泉としての労働力の搾取 について

 

①必要労働と剰余労働について

──資本が剰余労働を発明したのではない。剰余価値は剰余労働の歴史的な一形態である。

 

第8章「労働日」の2節「剰余労働への渇望 工場主とボヤール」の冒頭でマルクスは次のように指摘しています。

・「資本が剰余労働を発明したのではない。いつでも、社会の一部の者が生産手段の独占権を握っていれば、いつでも労働者は、自由であろうと不自由であろうと、自分自身を維持するために必要な労働時間<すなわち必要労働時間>に余分な労働時間<すなわち剰余労働時間>を付け加えて、生産手段の所有者のために生活手段を生産しなければならない。この所有者がアテナイの貴族であろうとエトルリアの神政者であろうとローマの市民であろうとノルマンの領主であろうとアメリカの奴隷所有者であろうとワラキアのボヤールであろうと現代の大地主や資本家であろうと。@

とはいえ、ある経済的社会構成体の中で生産物の交換価値ではなく使用価値の方が重きをなしている場合には、剰余労働は諸欲望の狭いにせよ広いにせよとにかくある範囲によって制限されており、剰余労働に対する無制限な欲望は<使用価値を目的とする>生産そのものの性格からは生じないということは明らかである。それだから、古代でも、交換価値をその独立の貨幣姿態で獲得しようとする場合、すなわち金銀の生産では、恐ろしいまでに過度労働が現われるのである。……」(全集版、P305~)

 

ここに述べられているように、マルクスの経済学はいわゆる史的唯物論によって歴史的に裏付けられていることが特徴です。

剰余価値の源泉である労働力の搾取について見ていく前に、まず、必要労働と剰余労働について確認しておきましょう。第7章「剰余価値率」の中では、こう述べられています。

 

・「すでに見たように、労働者は労働過程の一部分ではただ自分の労働力の価値、すなわち自分の必要生活手段の価値を生産するだけである。彼は社会的分業に基づく状態の下で生産するのだから、自分の生活手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品、たとえば糸という形で自分の生活手段の価値に等しい価値、または彼が生活手段を買うための貨幣に等しい価値を生産するのである。@

彼の労働日の内で彼がこのために費やす部分は、彼の平均1日の生活手段の価値に応じて、すなわちこの生活手段の生産のために必要な1日平均の労働時間に応じて、比較的大きいこともあれば小さいこともある。彼の1日の生活手段の価値が、平均して、対象化された6時間労働を表わすとすれば、労働者はこの価値を生産するために平均して毎日6時間労働しなければならない。仮に彼が資本家のためにではなく自分自身のために独立に労働するとしても、その他の事情が変わらない限り、自分の労働力の価値を生産してそれによって自分自身の維持または不断の再生産に必要な生活手段を得るためには、やはり彼は平均して1日の内の同じ可除部分<6時間>だけ労働しなければならないであろう。@

しかし、1労働日のうち彼が労働力の日価値たとえば3シリングを生産する部分では、彼はただ資本家によって既に支払われた労働力の価値の等価を生産するだけだから、つまり新たに創造された価値でただ前貸可変資本価値を補填するだけだから、この価値生産は単なる<労働力の>再生産として現われるのである。だから、1労働日のうちこの<労働力の>再生産が行なわれる部分を私は必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を必要労働と呼ぶのである。@

労働者のために必要、というのは、彼の労働の社会的形態にかかわりなく必要だからである。資本とその世界とのために必要、というのは、労働者の不断の存在はこの世界の基礎だからである。

労働過程の第二の期間、すなわち労働者が必要労働の限界を越えて労苦する期間は、彼にとっては労働を、すなわち労働力の支出を必要とするには違いないが、しかし彼のためには何の価値も形成しない。それは、無からの創造の全魅力をもって資本家に微笑みかける剰余価値を形成する労働日のこの部分を私は剰余労働時間と呼び、また、この時間に支出される労働を剰余労働と呼ぶ。@

価値一般の認識のためには<商品の使用価値を捨象して、商品の価値性格をその社会的実体である抽象的人間労働に還元し>、価値を単なる労働時間の凝固として、単に対象化された労働として把握することが決定的であるように、剰余価値の認識のためには<利潤や利子といったその具体的な形態を捨象して>、それを単なる剰余労働時間の凝固として、単に対象化された剰余労働として把握することが決定的である。ただこの剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、色々な経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのである。」(同、P281~)

 

このように「必要労働」とは、直接的生産者(労働者など)が自分たち自身を維持し不断に再生産するために必要な労働時間として支出される労働であり、「剰余労働」とはそれを越える労働時間として支出される労働のことです。(なお2番目の引用の原注にあるように、「本書ではこれまで『必要労働時間』という語を、一商品の生産に一般に社会的に必要な労働時間という意味に使ってきた。これからは、労働力という独自な商品の生産に必要な労働時間という意味でもこの語を使うことになる。……」という点に注意願います。)

労働によって、つまり自然に働きかけ、それを自らに利用しうるように変化させることによって、人間は自分自身を維持し再生産するばかりではなくて、それを越えた剰余労働を行なう可能性を得たと言えるでしょう。そして階級社会の発生とともに、剰余労働は生産手段を占有する階級を養なうためのものとして集中されるようになります。しかしながら「資本が剰余労働を発明したのではない」のですから、ここでは──資本主義社会の運動法則を研究する経済学では──剰余労働の発生自体が問題となるわけではありません。そうではなくて、「この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態」を、つまり労働者の剰余労働がどのようにして──価値関係すなわち商品流通を通じて──剰余価値として搾取されるのかを解き明かすことが課題であり、このことによって、“資本の自己増殖”という“神秘性”をはぎ取ることができるのです

 

 

②特別な商品としての労働力商品について

──労働力商品は、その交換価値が労働者の生存と不可分な生活手段の価値で規定されるにもかかわらず、その使用価値(つまりその使用・消費)によって商品の価値を“創造“する“源泉”になるという独特な性質をもつ。この二つの量の差を利用して、労働者によって生産物に対象化された剰余労働は「剰余価値」として──流通を媒介にして──資本家によって搾取される。

 

詳しい説明は省きますが、商品流通W-G-Wであろうと貨幣流通G-W-Gであろうと、流通においては等価交換が行われて形態転換が生じるだけです。つまり流通から剰余価値が発生することはできません。ところが始点と終点とが同じ貨幣・Gである貨幣流通G-W-GはG-W-G’(G+⊿G)でなければ無意味ですし、実際に貨幣として投下された資本は、ある増加分(すなわち剰余価値)を得て回収されます。「つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通の中で発生してはならないのである』(同、4章2節、P217)

そこで問題となるのは、労働力商品という特別な商品の特徴です。第4章3節「労働力の売買」ではこう述べられます。

 

・「資本に転化するべき<すなわちGからG’へと価値増殖するべき>貨幣の価値変化はこの貨幣<G>そのものには起こり得ない。なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石<蓄蔵貨幣>に固まってしまうからである。同様に第二の流通行為、商品の再販売<W-G>からも変化は生じ得ない。なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。@

そこで、<価値量の>変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値通りに支払われるのだからである。だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。ある商品の消費から価値を引き出すためには<普通の商品においてはその使用価値の消費とともにその価値も失われるのだが>、我々の貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面の中で、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである──労働能力または労働力に。」(同、P219)

 

・「我々が労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人間の内に存在していて、彼が何らかの種類の使用価値を生産するときにその都度運動させるところの、肉体的精神的諸能力の総体のことである。……

労働力の価値は、他のどの商品とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。それが価値である限りでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。労働力は、ただ生きている個人の素質として存在するだけである。したがって、労働力の生産はこの個人の存在を前提する。この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。……だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。……」(同、P219~)

 

人間の肉体的精神的存在と不可分な「労働力」が、人間そのものとは区別された或る価値(対象化された労働時間)をもち、他の商品と売買され得る“商品”となるためには、労働力の所持者が、生産手段を所有せずとも流通を通じて生活手段が得ることが可能になるなどの歴史的な前提が必要ですが、ここではそうした前提はすでに満たされているものと想定されます。

ところで注意すべきなのは、この既存の商品の価値で規定される「労働力」の価値と、その労働力の“発揮”、つまり価値の源泉である「労働」とは区別されなければならない点でしょう。第5章「労働過程と価値増殖過程」の2節「価値増殖過程」では、次のように述べられています。

 

・「労働力の売りのところでは、労働日の日価値は3シリングに等しいと想定され、またこの3シリングには6労働時間が具体化されており、したがって労働者の日々の生活手段の平均額を生産するためにはこの労働量が必要だと想定された。……

もっと詳しく見よう。労働力の日価値は3シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日<6時間>が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日かかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることができる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値<すなわち労働力の発揮>をなしている。労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、決して彼がまる1日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と労働過程での労働力の<使用が生み出す価値創造あるいは>価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の眼中にあったのである。糸や長靴を作るという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成<創造>するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが、決定的なのは、この<労働力>商品の独自な使用価値、すなわち<その使用が>価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役立ちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久的な法則に従って行動する。……貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから<商品交換の法則に従えば>、労働力はまる1日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の1日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が1日に作りだす価値<対象化された労働時間>が労働力自身<を再生産するための>の日価値の2倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運であるが、決して<労働力の>売り手に対する不法ではないのである。

我々の資本家には、彼を嬉しがらせるこのような事情は前から分かっていたのである。それだから、労働者は6時間ではなく12時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見出すのである。……手品はついに成功した。貨幣は資本に<つまり自己増殖した価値に>転化されたのである。」(同、P249~)

 

要するに、労働力の毎日の使用(すなわちその使用価値の発揮である「労働」)が創造する生産物(商品)の価値と、労働力の毎日の維持費である既存の生活手段の価値に等しい「労働力の価値」との大きさとの“差”を利用して、資本家は“等価交換”という商品流通の原則を破ることなく、商品の生産とその流通を通じて、労働者の剰余労働を搾取し、それを剰余価値として取得することができるのです

労働力を“商品”として売買することによって、資本家は労働者が生み出した商品の価値のなかに剰余労働部分(不払部分)を含ませることができます。つまり資本家は、商品流通を通じて労働者の剰余労働を剰余価値として取得することができるのです。商品流通を通じて労働者の必要労働を越える剰余労働を剰余価値として取得すること、すなわち労働力の搾取こそが、資本が「自己増殖する価値」であるかの外見をもつ“秘密”なのです

このことは次項で触れるように、「労働力の価格」が、労賃すなわち「労働の価格」として現われることによって隠蔽されます。価値(対象化された労働)を創造するのは、労働力を再生産するために必要な既存の生活手段の価値である「労働力の価値」ではなくて、「労働力の使用価値」すなわちその発揮=労働活動の継続時間だということは、注意されるべきことと思われます。

 

 

③労賃について

──労賃(賃金)の本質は労働者の必要労働時間である。労賃の形態では「労働力の価格」が「労働の価格」として現われるために、資本家による剰余労働(不払労働)の取得が不明になる。

 

②の補足として、資本の下での剰余労働(不払労働)の隠蔽について、第17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」からの文章を紹介しておきましょう。

・「さらに、人の見るように、1労働日の支払部分すなわち6時間の労働を表わしている3シリングという価値は、支払われない6時間を含む12時間の1労働日全体の価値または価格<全てが支払われるなら6シリングであるのに>として現われる。つまり、労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれるということの一切の痕跡を消し去るのである。@

夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分でさえも、彼の主人のための労働として現われる。彼の全ての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払い労働でさえも、支払われるものとして現われる。前の方の場合には奴隷が自分のために労働すること<すなわち必要労働>を所有関係が覆い隠すのであり、後の方の場合には賃金労働者が無償で労働すること<すなわち剰余労働>を貨幣関係<すなわち売買=等価交換>が覆い隠すのである……

資本と労働との間の交換は、人間の知覚には、さしあたりは他の全ての商品の売買と全く同じ仕方で現われる。買い手はある貨幣額を与え、売り手は貨幣とは違ったある物品を与える。……

さらに、交換価値と使用価値とはそれ自体として通約のできない量なのだから、『労働の価値』とか『労働の価格』とかいう表現も、『綿花の価値』とか『綿花の価格』とかいう表現以上に不合理なものには見えないのである。その上に、労働者は<実際には労賃を前払いされるのではなくて>自分の労働を提供した後で支払いを受けるということが加わってくる。ところが、貨幣は、支払手段として機能する場合には、提供された物品の価値または価格を後から実現するのである。したがって、今論じている場合には、提供された労働の価値または価格を後から実現する<つまり労働者による資本家への信用貸しが単なる貨幣の役割のように見える>。最後に、労働者が資本家に提供する『使用価値』は、実際には彼の労働力ではなくてその機能なのであり、たとえば裁縫労働とか製靴労働とか防錆労働とかいう一定の有用労働である。その同じ労働が別の面<社会的労働としての機能>から見れば一般的な価値形成要素であるということ、この性質によって労働は他の一切の商品から区別されるのであるが、それは普通の意識の領域の外にあるのである。」(同、P699~)

 

 

④絶対的剰余価値と相対的剰余価値について

──資本主義に特徴的な、生産力の増大による相対的剰余価値の取得は、資本家による生産手段の独占と生産の指揮という社会関係と矛盾するに至る。

 

資本家が無償で手に入れる剰余価値は、必要労働時間が一定であればいつでも労働日が延長されればされるほど、それだけ剰余労働時間が増大するのですから増大することになります。これが「絶対的剰余価値の生産」と呼ばれるものです。しかしながら資本主義的生産に特徴的な剰余価値の生産方法として、「相対的剰余価値の生産」と呼ばれるものが発展します。それは労働の生産性を高め、労働者の生活手段の生産のための必要労働時間を短縮し、労働力の価値を低減することによって、これまで必要労働時間であった部分を剰余労働部分に転化するという方法です。つまり労働日が一定であっても剰余労働時間を必要労働時間に対して相対的に増大させる(その分割比率を変える)ことで、1労働日当たりの剰余価値を増大させるのです

この方法は資本主義が大工業によって自分の足で立つことに役立ったとともに、剰余価値の取得のためには資本自らがその技術的基礎を革命し続けねばならないという事情は、やがてはその生産力が資本家による生産手段の独占と生産の指揮という社会的関係と矛盾するまでになるのです。第10章「相対的剰余価値の概念」では、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との違いについてこう述べられています。

 

・「しかし、このように労働力の価値が1/10だけ下がるということは、それ自身また、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とする。といっても、これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日で作ることができる。彼が同じ時間で2足の長靴を作ろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならない。そして、それは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできない。したがって、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに革命が起こらなければならない。我々が労働の生産力の上昇というのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより少量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。@

そこで、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられた物として想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長する<絶対的剰余価値の生産>だけでは、決して十分ではないのである。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日の内のこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものをも<不断に>変革しなければならないのである。

労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これに対して、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。」(同、P414~)

 

 

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