読む会だより25年10月用

 

「読む会」だより(210月用) 文責IZ

 

月の議論など)

 

9月の「読む会」は21日に開催されました。

(前月の議論)のところでは、剰余価値率(搾取率ないし資本の増殖率)の考察においてはmとvとの関係だけが取り上げられれば良い、mを生み出す“素材的な条件”であるcの問題は考察外に置くべきだ、ということが了承されたように思います。

資本家が“自由に処分することが可能な”ものは剰余価値部分だということと、いわゆる収入とは何かということについては、久留間鮫造の説明が分かりやすいので抜粋を付録の参考資料として挙げておきます(次回も参考にします)。

なお紹介し忘れていましたが、現在の日本の剰余価値率がどれくらいかについては、一応の指標として「労働分配率」、つまり人件費/利潤(付加価値ないし粗利益)が挙げられます。昨年は約5割ということですから、人件費をvとみなし100、利潤をv+mとみなし200とすれば、およそ剰余価値率は100/100で100%ということになります。この指標は商業や不動産業を含めての賃金や利潤なので正確ではありませんが、目安にはなるかと思われます。

(説明)21章「単純再生産」1、2節のところでは、たより(1)項で「資本主義は無政府的な生産を特徴とする……」と触れた点について、たとえば中国の学者が日本のほうが中国よりもよほど社会主義的だと発言しているように、“無政府的”という特徴は現代の資本主義には当てはまらないのではないか、という質問が出ました。これに対しては参加者から、確かに大企業内では非常に生産は組織化・計画化されてはいるが、独占は競争を排除しないと言われるようにそれは企業内のことにすぎず、例えば鉄鋼などの国際的な市場を見てもそこでの過剰生産と無政府性はやはり非常に拡大している、という意見が出されました。チューターは、現代資本主義の無政府性がどこに現われているのかは、次回もう少しまとめさせてもらいたいと引き取りました。(申し訳ありませんが、この件については11月に参考資料を出します。社会的な生産が、生産物の価値に基づいて剰余価値の取得を目的に行なわれる、という資本主義の本質は変わらないにせよ、資本主義の“進化”は、その基礎となっている商品生産の廃棄という根本的な課題を提起しているように思います。)

また、たより(1)項末尾で「そうした条件が“必然だ”<客観的に要請される>」と触れた点について、チューターから、これは矛盾を通じて実現されるとか、現実の矛盾として条件が存在するとか、そういう意味と受け取ってほしい、と発言がありました。

 

 

説明 第22章 「剰余価値の資本への転化」の2回目(第3、5節)

第3節 剰余価値の資本と収入とへの分割 節欲説

第5節 いわゆる労働財源

 

(当初予定していた第4節 は、重要でもあり復習にもなりますが引用が長くなりますので、順番通りになりませんが次回の第3回で取り上げることにします。

 

. 取得された剰余価値の一部分は資本家によって収入として個人的に消費されるが、他の部分は追加の資本として充用され、資本が蓄積される。収入という語には資本の果実としての剰余価値の全体を指す場合と、そのうちの追加の資本に充用されることなく資本家が個人的に消費しうる部分を指す場合があるが、正しい見地は後者である。この見地からすると、資本家の収入と蓄積とは対立する

 

・「我々は剰余価値または剰余生産物を、前章ではただ資本家の個人的消費財源として、本章ではこれまではただ蓄積財源としてのみ考察した。しかし、剰余価値は、このどちらかの一方だけであるのではなく、同時にそれらのどちらでもある。剰余価値の一部分は資本家によって収入として消費されるのであり、他の部分は資本として充用され、蓄積されるのである。」(全集版、770

 

この点に説明は必要ないと思われます。ただここでマルクスは「収入」という言葉について、次のような補注を行なっています。

「読者も気が付くであろうように、収入という語は二重の意味に用いられる。すなわち、第一には、周期的に資本から生ずる果実としての剰余価値を表わすために用いられ、第二には、この果実の内から資本家によって周期的に消費される部分、すなわち彼の消費財源に加えられる部分を表わすために用いられる。私もこの二重の意味を保存しておく。というのは、それがイギリスやフランスの経済学者たちの用語法と一致するからである。」

「収入」については、例えば「労働や事業活動、資産運用などによって得られるお金の総額を指します」(グーグルAI)といった説明がなされます。しかし社会の再生産という観点抜きでは、収入の説明とは言えないでしょう。紹介した久留間の所説(Ⅰ、Ⅱ)などを参考ください。

 

 

. 剰余価値の量を与えられた一定量と仮定すれば、資本家の収入として個人的に消費される部分と、追加の資本に充用される部分=蓄積分とは反比例し、両者への分割割合が蓄積の大きさを規定する。この分割は資本家の意思行為として行われるが、それは価値増殖による生産力の発展という資本の社会的機能を歴史的・人格的に果たすためであって、個人的な消費欲望からではない

 

・「剰余価値の量が与えられていれば、これらの部分<収入として消費される部分と追加の資本として充用される部分>の一方が小さければ小さいほど他方はそれだけ大きいであろう。他の事情がすべて変わらないと仮定すれば、この分割が行なわれる割合は蓄積の大きさを決定する。しかし、誰がこの分割を行なうかといえば、それは剰余価値の所有者、つまり資本家である。だから、この分割は資本家の意思行為である。彼が取り立てる貢物の内から彼が蓄積する部分のことを、人々は、彼がそれを貯蓄するのだ、と言う。なぜそう言うのかといえば、彼がそれを食ってしまわないからであり、言い換えれば、彼が資本家としての自分の機能を、つまり自分を富ませるという機能を果たすからである。

資本家は、ただ人格化された資本である限りでのみ、……彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性の内に含まれるのである。だがまた、その限りでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会的形態の唯一の現実の基礎となり得る物質的生産条件の創造を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲を持っている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるもの<致富欲>は、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構の中では彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押し付ける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。」(同、P771~)

この部分も特に説明は不要と思われますが、斎藤幸平氏などが語るのとは違って、マルクスはここでも「各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会的形態の唯一の現実の基礎となり得る物質的生産条件の創造」と述べて、社会の発展における社会的生産諸力と物質的生産条件との大きな意義を明確に語っていることに注意願います。

 

 

. 資本主義が発展して資本の蓄積と社会の富とが増大すると、資本家はその個人的な消費を抑制することなく一定程度を資本蓄積することが可能となる。このため資本家の意識の中では、資本の蓄積は享楽欲への「節欲」として理解される

 

・「それゆえ、彼のあらゆる行動が、ただ彼において意志と意識とを与えられている資本の機能でしかない限りでは、彼にとって彼自身の私的消費は彼の資本の蓄積から盗み取ることを意味するのであって、ちょうどイタリア式簿記で私的支出が資本に対する資本家の借方に現われるようなものである。@

蓄積は、社会的な富の<による>世界の征服である。蓄積は、搾取される人間材料の量を拡大すると同時に、資本家の直接間接の支配を拡大するのである。

だが、原罪の結果はどこにも現われる。資本主義的生産様式が発展し蓄積が増進し富が増大するにつれて、資本家は資本の単なる化身ではなくなる。彼は自分自身のアダムに「人間的な共感」を覚える。そして、禁欲への熱中を古風な貨幣蓄蔵者の偏見として嘲笑するように教育される。古典的な資本家は、個人的消費に、資本家への職分に反する罪悪で蓄積の「抑制」だという烙印を押すのであるが、現代化された資本家は、蓄積を彼の享楽欲の「禁欲」として理解することができるのである……

資本主義的生産様式の歴史的発端──そして資本家に成り上がる者はそれぞれ個別的にこの歴史的段階を通る──では、致富欲と貪欲とが絶対的な熱情として優勢を占める。しかし、資本主義的生産の進展は、ただ享楽の世界を創り出すだけではない。それは、投機や信用制度によって、いくらでもにわかな致富の源泉を開く。発展がある程度の高さに達すれば、富の誇示であり同時に信用の手段でもある世間並みな程度の浪費は、「不幸な」資本家の営業上の必要にさえなる。奢侈は資本の交際費の一部になる。@

もともと、資本家は、貨幣蓄蔵者とは違って、彼自身の労働や彼自身の非消費に比例して富をなすのではなく、彼が他人の労働力を搾取し労働者に人生の一切の快楽を断つことを強制する程度にしたがって富をなすのである。だから、資本家の浪費は、派手な封建領主の浪費のような無邪気な性質を持っているのではなく、むしろその後ろにはいつでも最も卑しい貪欲や最も小心な打算が潜んでいるのであるが、それにもかかわらず、彼の浪費は、彼の蓄積と一緒に、しかも一方が他方を中断させる必要なしに、増大するのである。それと同時に、個々の資本人の高く張った胸の中では、貯蓄欲と享楽欲とのファウスト的葛藤<神への信仰と地上的快楽との葛藤>が展開されるのである。」(同、P774~)

 

シーニアなどの俗流経済学に特徴的な“蓄積=節欲”説は、「資本家は、……彼自身の労働や彼自身の非消費に比例して富をなすのではなく、彼が他人の労働力を搾取し労働者に人生の一切の快楽を断つことを強制する程度にしたがって富をなす」という社会関係の根底には目を閉ざし、資本家の享楽欲の「節約」こそが資本蓄積と社会の富の増大の原因だと自慢げにおしゃべりすることに帰着します。

他方マルサスはいわゆる“過少消費説”の立場から、過剰生産=恐慌などの資本蓄積に付随する困難は、地主などの不生産的階級による“浪費”によって解消しうると説きました。これに対してマルクスはそれは不生産的階級を弁護する手前勝手な“分業論”だと次のように皮肉っています。

 

・「蓄積せよ、蓄積せよ! ……すなわち、剰余価値または剰余生産物のできるだけ大きな部分を資本に再転化させよ! 蓄積のための蓄積、生産のための生産、この定式の中に古典派経済学はブルジョア時代の歴史的使命を言い表わした。古典派経済学は富の生みの苦しみについては一瞬も考え違いはしなかった。だが、歴史的必然を嘆いたとて何になろう? 古典派経済学にとっては、プロレタリアートはただ剰余価値を生産するための機械として認められるだけだとすれば、資本家もまたただこの剰余価値を剰余資本に転化させるための機械として認められるだけである。@

古典派経済学は資本家の歴史的機能を大真面目に問題にする。<これに対して>資本家の胸を享楽欲と致富欲との厄介な葛藤から守ってやろうとして、マルサスは、今世紀の20年代の初めに、現実に生産に携わる資本家には蓄積の仕事を割り当て、その他の剰余価値を分け取る人々、すなわち土地貴族や国家と教会からの受給者などには浪費の仕事を割り当てるという分業を弁護した。彼は言う、『支出への熱情と蓄積への熱情とを分けて考えること』は最も重要なことである、と。……」(同、P775~)

 

 

. 様々な歴史的社会において拡大再生産が行なわれる。しかし、その生産拡大が資本の蓄積や資本家の機能として現われるのは、ただ生産手段やその生産物が“蓄積された他人の労働”として現われ、他人の労働を吸収するための手段として生産者自身に対立するという歴史的時代においてのみである

 

・「非常に様々な経済的社会構成体の中でただ単純再生産が行なわれるだけではなく、規模の相違はあるにせよ、拡大再生産が行なわれる。ますます多く生産されて、ますます多く消費され、したがってますます多くの生産物が生産手段に転化される。しかし、この<拡大再生産の>過程は、労働者に対して彼の生産手段が、したがってまた彼の生産物も彼の生活手段も、まだ資本という形で対立していない間は、資本の蓄積としては現れないし、したがってまた資本家の機能としても現われない。@

数年前に死んだリチャード・ジョーンズ、この人はヘーリベリの東インド大学の経済学の講座をマルサスから受け継いだ人であるが、彼はこの点を二つの大きな事実によってよく論じ尽くしている。インド人民の最大の部分は自営農民だから、彼らの生産物、彼らの労働手段や生活手段も、決して『他人の収入から貯蓄される、したがってまた先行の蓄積過程を通ってきた財源<元本、岩波文庫訳では「原本」>の形では』存在しない。他方、イギリスの支配による古い体制の解体が最も少なかった地方の非農業労働者は、直接に豪族によって使用され、これらの豪族の手には農村の剰余生産物の一部分が貢租や地代として流入する。この生産物の一部分は豪族によって現物形態で消費され、別の一部分は豪族のために労働者の手で奢侈手段やその他の消費手段に転化され、その残りが、自分の労働用具の所有者である労働者の報酬になる。生産も拡大された規模での再生産も、ここでは、あの奇妙な聖者<資本家>の、あの悲しい姿の騎士の、「禁欲する」資本家の、一切の介在なしに進行するのである。」(同、P779~)

 

「生産のための生産」という資本主義的な生産の下では、生産手段の生産の拡大のために消費手段の生産が“節約”される(もっぱら労働者のための)のだとしても、このことは生産の拡大と富の増大(すなわち拡大再生産)が資本の蓄積とそのための資本家の機能(節約)によるものだということを意味しません。どんな社会も消費手段ばかりでなく生産手段をも拡大することによってはじめて社会を拡大再生産することができます。しかし、拡大された生産手段やその生産物が、直接的生産者にたいして単なる労働対象や労働手段としてではなく「資本の蓄積」として、すなわち“蓄積された他人の労働”として対立するのは、ただそれらが他人の労働を吸収するための手段として用いられるという歴史的な社会関係の下でのみなのです。

 

 

. “いわゆる労働財源(元本、原本”とは、「労働者が彼の自己維持と再生産のために必要とし社会的生産のどんな体制の下でも常に自分で生産し再生産しなければならない生活手段財源または労働財源」(第21章)のことである。ブルジョアはその「労働元本(賃金基金)説」において、この大きさには越えることの出来ない自然限界がある(人口論的に、実質賃金は不変だ)と説いた。しかし、それは資本家の意思行為として行なわれる収入と蓄積との分割比に、労働者は口出しはできないといった、資本の下での社会的な限界を反映しているにすぎない)

 

・「この<再生産の>研究の過程で明らかになったように、資本は決して固定した量ではなく、社会的富の内の弾力性のある一部分であり、剰余価値が収入と追加資本とにどう分かれるかにしたがって絶えず変動する一部分である。@

さらに、我々が見たように、現に機能している資本の大きさは与えられたものであっても、<その投下によって>これに合体される労働力や科学や土地(土地は、経済学的には、人間の助力なしに天然に存在する労働対象の全てを含むものと考えてよい)はこの資本の弾力的な力をなすものであって、これらの力はこの資本に、ある限界の中では、資本そのものの大きさにはかかわりのない作用範囲を許すのである。このことを見るにあたっては、同じ資本量の作用度が非常に違うことの原因になるような、流通過程の諸事情は、全て度外視された。我々は資本主義的生産の制限を前提し、したがって社会的生産過程の一つの純粋に自然発生的な姿<すなわち資本一般>を前提するのだから、現存の生産手段と労働力とで直接に計画的に実現されうる一層合理的な結合は、全て度外視されたのである。@

古典派経済学は、以前から、社会的資本を固定した作用度を持つ一つの固定した量と考えることを好んだ。しかしこの偏見をはじめて定説として固めたのは、生粋の俗物ジェレミ・ベンサム、この、19世紀の平凡な市民常識の面白くもない知ったかぶりで多弁な託宣者だった。哲学者仲間でベンサムと言えば、詩人仲間のマーティン・タッパーのようなものである。両人とも、イギリスでなければ製造できない代物だった。@

<社会的資本を固定量と考える>彼の説では、生産過程のもっともありふれた現象、例えばその突然の膨張や収縮も、実に蓄積でさえも、全く理解できないものになる。この説は、ベンサム自身によっても、またマルサスやジェームズ・ミルやマカロックなどによっても、弁護論的な目的のために利用された。殊に、資本の一部分である可変資本、すなわち労働力に転換される資本を、一つの固定量として説明するために、利用された。可変資本の素材的存在、すなわち労働者にとって可変資本を表わしている生活手段量、またはいわゆる労働財源は、社会的富の内の、自然の鎖で区切られている越えることのできない特殊部分にでっち上げられた。@

社会的富の内の、不変資本として機能するべき、または、素材的に言い表せば、生産手段として機能するべき部分を動かすためには、一定量の生きている労働が必要である。この量は技術的に与えられている。しかし、この労働量を流動化するために必要な労働者数は与えられてはいない。なぜならば、それは個々の労働力の搾取度につれて変動するからである。また、この労働力の価格も与えられてはいないのであって、ただこの価格の最低限界が、しかも非常に弾力的なそれが与えられているだけである。@

この説の根底にある事実は次のようなものである。一方では、労働者は、非労働者の享楽手段と生産手段とへの社会的富の分割に口出しはできない。他方では、労働者は、ただ例外的な恵まれた場合に富者の「収入」の犠牲においていわゆる「労働財源」を拡大することができるだけである

労働財源の資本主義的な限度をその社会的な自然限度につくり変えることが、どんなに馬鹿々々しい同義反復になってしまうかは、ことにフォーセット教授によって示されるであろう。……」(同、P794~)

 

ブルジョアが唱える「労働元本説」の趣旨はおよそ次のようなものです。①賃金のために予定される資本は、社会的総資本の一部である。②総資本が一定の大きさであり、また生産手段に含まれる資本部分が与えられていると仮定すれば、賃金にとってはそれ以上増加することの出来ない一定の社会的な元本がある。③だから個々の労働者の賃金の総額は名目上変化しえても実質賃金は変化しない。

確かに資本主義の下では労働元本は実際に制限されているのですが、それは不変で固定したものではありません。追加資本の大きさしたがって生産拡大の規模を一定と仮定しても、労働元本(ここでは可変資本v)の大きさは資本家階級の個人的な消費=収入の大きさに反比例して変動しうる(階級闘争の結果として)のですが、このことを彼らは隠すのです

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