読む会だより25年9月用
「読む会」だより(25年9月用) 文責IZ
(7月の議論など)
7月の「読む会」は20日に、新しい参加者を迎えて己斐公民館で開催されました。
(前月の議論)のところでは、たよりで「労働力の搾取率を示す剰余価値率は、m(剰余労働時間)/v(必要労働時間)で示されなければなりません……。ところが経済学者たちは……m/(v+m)として示したのです」と触れた点について、参加者からvを支払労働、mを不払労働として説明したほうが分かりやすいのではないか、と指摘がありました。確かにそうかもしれません。ただ後者は前者から導かれるもの(前者の一つの歴史的形態として)とチューターは考えているので、二つを併記したほう良かったかと思っています。
ここでは、チューターが古典派経済学者たちの剰余価値率の観念──(剰余価値/労働日)=(剰余価値/生産物価値)=(剰余生産物/総生産物)──を、利潤率との関係(この場合にはmとvだけではなくて不変資本cの問題が入ってきます)から説明しようとしたために混乱した発言をしてしまいました。そうではなくて、ここではmとvだけが問題とされているのです。
例えば16章でマルクスは、「もしこれらの定式が資本の自己増殖度の直接的表現として認められるならば、剰余労働または剰余価値が100%に達することは決してあり得ない……」(全集版、P689)と述べています。労働力の搾取度を表現するm/vとは、資本にとってはまさにその自己増殖度を示すものに他なりません。そしてこの資本価値の自己“増殖”にとっては、cはただそのための“素材的な前提条件”になっているだけで、cがmを生み出すというわけではないのです。資本価値の“増殖”をもたらす剰余価値mは、可変資本v(賃金=労働力の価値に支出される資本部分)の結果である労働力のさらなる発揮としてのみ“創造”されるのであり、すなわち必要労働(支払労働)を越える剰余労働(不払労働)の支出こそがその源泉です。だから資本の自己増殖率=搾取率は、mのvに対する比率であるm/vで示されなければならないのであって、1労働日やその総生産物に対する比率で示してはならないということ、これがここでの批判の要点です。だからこそ経済学者たちの定式は「可変資本と生きている労働力との交換やそれに対応する生産物からの労働者の排除を覆い隠している」(同、P691)ものであり、また利潤率やcを持ち出すことはここでの問題の焦点をぼかすだけでした。(たより自体は利潤率との関係に触れていないので、問題ないでしょうが。)
関連して、c部分はどうなるのかという質問が出ましたが、上記ということで了解ください。
また、可変資本vに関連して、剰余価値mは資本と労働者との力関係や、資本間の競争によって変動するが、そのことは賃金=労働力の価値には直接に影響するものではないということが確認されたように思います。
【補足】の部分では、すでに幾度か触れてきたように、「商品価値は前提された大きさ」であるということが重要です。つまり商品は、それが “売買(交換)”される前に、既にその「価値」をその商品の生産のために支出された労働量(社会的な)という既存の大きさとしてもっており、その価値としての既存の大きさが、貨幣商品によって秤量されて「価格(金量)」として現われるにすぎません。
前回の続きとなったたより6月用の、(説明)21章「単純再生産」の5項(実際には4項)では、「ここで問題なのは、資本の価値であって、資本の物質的成分ではない」ということの意味について質問が出ました。
たとえばある資本家が不変資本すなわち原材料や労働手段等の購入に2000ポンド、可変資本すなわち労働力に1000ポンド、計3000ポンドを投資して、剰余価値率が100%だとすると一循環の後には2000+(1000+1000)ポンドすなわち4000ポンドを取得します。単純再生産の場合、このうちの“自由に処分することが可能な”剰余価値分1000ポンドすべてを資本家は自らの生活手段等として個人的に消費するのですから、彼の資本の次の循環は再び同じ3000ポンドから始まります。しかし「資本家が、自分は他人の不払労働の産物である剰余価値を消費して最初の資本価値を維持しているのだと考えても」、彼は自らの3000の前貸資本のうちから1000を消費したのであり、再び3000の資本を手にしているなら、そのうちの1000は彼が前貸ししたものではなくて他人の不払労働=剰余価値を代表しているという「事実を変えることは絶対に出来ない」のです。3循環後に彼が計3000ポンドを個人的に消費したのなら、「彼は、大きさの変わっていない資本を自分の手に保持しており、その一部である建物や機械などは、彼が事業を始めたときからすでに存在していたものである」としても、彼が新たに循環させる資本のは、その姿かたちはどうあれ全て剰余価値が置き換わったものに、すなわち「他人の不払労働の物質化」になっているというわけです。
6項7項については特に質問や意見は出ず、時間が中途半端になるので第22章の1回目の(説明)は次回送りとなりました。
最後に新しい参加者の方から、剰余労働の説明が良く分からなかったという感想が出されました。
たよりでも触れたように、生産力が増大するなら、直接的生産者が自らの生活を再生産するのに必要な労働量を上回る、剰余労働をなし得るということ自体は当然のことであって、“善悪”の問題ではありません。剰余労働が、社会の一部の富をますます増加させると同時に、他方の大多数の成員には労働苦・生活苦を強制するという姿をとるのは、この社会が、富と生産手段を占有する階級と自分の労働能力以外には持つべきもののない階級とに分裂しており、前者が後者の労働を剰余価値取得の手段とするという生産関係(資本主義的な生産関係)の下にあるからに他なりません。しかし直接的生産者が団結して生産手段を社会的共有の下に置き、生産を意識的に組織するならば(これが“社会主義”の意味です)、剰余労働もまた、人々がそれを何のためにどれだけ支出するかという意識的な労働支出に置き換わるのであって、現在のようにそれが必要労働と対立的な姿をとることはなくなるように思われます。
(以下の22章の1回目の説明部分は、たより7月用の再掲です)
(説明) 第22章 「剰余価値の資本への転化」の1回目(第1、2節)
第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的 取得法則への変転
第2節 経済学の側からの拡大された規模での再生産の誤った把握
(1. 22章の課題は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるのか、その条件は何かということである。剰余価値が資本に転化しうるのは、それを素材的に担う剰余生産物が市場に存在し、新たな資本の物的諸成分(生産手段ならびに労働者の生活手段)として転換しうるという素材的条件を必要とする。拡大再生産では、資本は単純再生産でのように単に剰余価値(不払労働)の結晶として生まれ変わるのではなく、個々の資本は追加の生産手段と追加の生活手段という素材的条件を満たして生まれ変わらねばならない)
・「これまで<第2篇から6篇>は、どのようにして剰余価値が資本から生ずるかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるかを考察しなければならない。剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。」(全集版、P754)
第1巻(部)の「資本の生産過程」では、価値とは商品の生産のために支出された労働量──ただし抽象的なあるいは社会的な労働として──であることが論じられたうえで、労働力の価値を越える労働力の使用(剰余労働)こそが剰余価値の源泉であり、商品の流通を通じて前貸資本は価値増殖していくことが論じられてきました。この22章では、この価値増殖が資本の蓄積、その拡大再生産となるための条件が考察されることになります。
・「資本価値は最初は貨幣形態で前貸しされた。ところが、剰余価値ははじめから総生産物の一定の部分の価値として存在する。総生産物が売られ、貨幣に転化されれば、資本価値は再びその最初の形態<貨幣形態>を得るが、剰余価値のほうはその最初の存在様式<発揮されるべき労働力に具わっている>を変えている。とはいえ、この瞬間からは資本価値も剰余価値も両方とも貨幣額であって、それらの資本への再転化は<最初と>全く同じ仕方で行なわれる。@
資本家はそれらをどちらも商品の買い入れに投ずるのであって、これらの商品は、彼がまた改めて自分の製品の製造を始めること、しかも今度は拡大された規模で始めることを可能にする。だが、このような商品を買うためには、彼はそれらが市場にあるのを見出さなければならない。
彼の持っている糸が流通するのは、彼が自分の年間生産物を市場に出すからに他ならない。それは他の全ての資本家も同じように各自の商品ですることである。しかし、これらの商品は、市場にやってくる前に既に年間総生産物の内に存在していたのである。すなわち、個別資本の総額または社会的総資本がその年のうちに転化して行くところの、そして各個の資本家はただその一可除部分を手にしているにすぎないところの、各種の対象の総量の内に存在していたのである。@
市場での出来事は、ただ年間生産の個々の成分の転換を実現するだけで、これらの成分を一つの手から別の手に移しはするが、年間生産物を大きくすることも、生産された対象の性質を変えることもできないのである。だから、年間総生産物がどのように使用されうるかは、総生産物そのものの構成によって定まるのであって、決して流通によって定まるのではないのである。
まず第一に、年間生産は、その年のうちに消費される物的資本成分を補填するべき全ての対象(使用価値)を供給しなければならない。これを引き去った後には、純生産物または剰余生産物が残り、それには剰余価値が含まれている。では、この剰余生産物は何から成っているのか? ことによると、資本家階級の必要や欲望を満たすべき物、つまりこの階級の消費財源に入るものからでも成っているのであろうか? もしそれが全部だとすれば、剰余価値は残らず使い果たされ、ただ単純再生産が行なわれるだけであろう。
蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化させなければならない。だが、奇跡でも行わない限り、人が資本に転化させうるものは、ただ労働過程で使用できる物、すなわち生産手段と、その他には、労働者の生活維持に役立ち得る物、すなわち生活手段とだけである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸資本の補填に必要だった量を越える追加生産手段と追加生活手段との生産に充てられていなければならない。一言でいえば、剰余価値が資本に転化できるのは、それを担う剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからに他ならないのである。
次にこれらの成分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加を必要とする。既に使用されている労働者の搾取が外延的にも内包的にも増大しないようにするとすれば、追加労働力を買い入れなければならない。そのためにも資本主義的生産の機構はすぐ間に合うようになっている。というのは、この機構は労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金はこの階級の維持だけではなくその増殖をも保証するに足りるからである。このような、色々な年齢層の労働者階級によって年々資本に供給される追加労働力を、資本は、ただ、年間生産の内に既に含まれている追加生産手段に合体させさえすればよいのであって、剰余価値の資本への転化はそれで済んでいるのである。具体的に見れば、蓄積は、累進的に増大する規模での資本の再生産ということに帰着する。……」(全集版、P756~)
前回の第5項(実際には第4項の誤り)で触れたように、剰余価値がすべて資本家によって個人的に消費されてしまい、資本規模が変わらない単純再生産においても、その資本はその素材(物質的成分)が同じ生産手段の姿で繰り返し存在しようとも、その資本の価値は何回かの循環の後には自腹の前貸資本から他人の不払労働の結晶へと、つまり剰余価値の結晶へと置き換わっています。その限りではそれも「剰余価値の資本への転化」ではあるのですが、それが実際に資本の規模拡大につながる為には、別の条件が必要です。すなわち剰余価値の一部分が新たに資本として追加されうるためは、それと転換され得る同じ価値の大きさをもつ新たな資本の物的諸成分(生産手段ならびに労働者の生活手段)が市場に存在することが必要です。このために「年間剰余労働の一部分は、前貸資本の補填に必要だった量を越える追加生産手段と追加生活手段との生産に充てられていなければならない」ということが、剰余価値が資本へ転化するための“素材的”条件となるのです。
資本主義は無政府的な生産を特徴とするのに、なぜ追加の生産手段や追加の生活手段があらかじめ市場に存在し得るのか、という疑問が出るかもしれません。しかしむしろ資本主義が社会的な生産として成り立つためには、しかも相対的剰余価値の生産のために日々生産力の増大をなしてゆくためには、そうした条件が必然だ<客観的に要請される>ということではないでしょうか。
(2. 最初は、自分の労働に基づくものとして現われた私的所有権は、繰り返される再生産においては逆転して、他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現われる。所有と労働との分離は、商品生産における所有法則の必然的な帰結になる)
・「第一の追加資本の前提は、資本家によって前貸しされた、彼の「最初の労働」によって彼のものになった、10,000ポンドという価値額だった。ところが、第二の追加資本400ポンドの前提は、それに先行する、第一の追加資本2000ポンドの蓄積に他ならないのであって、これの生んだ剰余価値の資本化されたものが第二の追加資本である。過去の不払労働の所有が、今では、生きている不払労働をますます大きな規模で今取得するためのただ一つの条件として現われるのである。資本家が蓄積したものが多ければ多いほど、ますます多く彼は蓄積することができるのである。
追加資本第1号になる剰余価値が、原資本の一部分による労働力の買い入れの結果だった限りでは、すなわち、商品交換の諸法則に一致した買い入れ、また法律的に見れば、労働者の側には彼自身の諸能力の自由な処分権、貨幣または商品の所持者の側には彼の持つ価値の自由な処分権の他には何も前提しない買い入れの結果だった限りでは、また、追加資本第2号以下がただ単に追加資本第1号の結果であり、したがってあの最初の関係の帰結である限りでは、さらにまた、一つ一つの取引が引き続き商品交換の法則に一致し、資本家は常に労働力を買い、労働者は常にそれを売り、しかも、我々が仮定したいと思うように、労働力の現実の価値通りに売買する限りでは、明らかに、商品生産と商品流通とに基づく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な<潜在的な>、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。@
<すなわち>最初の売買として現われた等価物どうしの交換は、一変して、ただ外観的に交換が行われるだけになる。なぜならば、第一に、労働力と交換される資本部分そのものが、等価なしで取得された他人の労働生産物の一部分<剰余生産物>に他ならないからであり、第二には、この資本部分は、その生産者である労働者によって、ただ補填されるだけではなく、<等価なしの>新しい剰余を伴って補填されなければならないからである。@
こうして、資本家と労働者との間の交換という関係はただ流通過程に属する外観でしかなくなり、<等価なしでの取得という>内容そのものとは無関係でただ内容を不可解にするだけの単なる形式になるのである。労働力の不断の売買<等価交換>は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしで取得するすでに対象化されている他人労働の一部分<生活資料>を、絶えず繰り返しそれよりも多量の生きている他人労働と取り替えるということである。@
最初は、所有権は自分の労働に基づくものとして我々の前に現われた。<商品流通に基づく限り>少なくとも、このような過程が認められなければならなかった。なぜならば、ただ同権の商品所持者が相対するだけであり、他人の商品を取得するための手段はただ自分の商品を手放すことだけであり、そして自分の商品はただ労働によって創り出され得るだけだからである。所有は、今では、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現われ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現われる。所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則<私的所有の法則>の必然的な帰結になるのである。
このように、資本主義的取得様式は商品生産の本来の諸法則には真っ向から背くように見えるとはいえ、それは決してこの諸法則の侵害から生まれるのではなく、反対にこの諸法則の適用から生まれるのである。資本主義的蓄積を終結点とする一連の<商品ないしその価値の>諸運動段階を簡単に振り返ってみれば、このことは一層明らかになるであろう。……」(同、P759~)
ここで触れられているのが、いわゆる「領有法則の転回」と呼ばれる事象です。自らの労働に基づく等価物の交換という私的所有(あるいは商品交換)の法則は、生産手段の私的所有という条件の下で再生産が繰り返されれば、当初とは正反対な、他人の労働の私的領有に、したがってまた「所有と労働との分離」という結果に行き着くほかないのです。
(3. 資本に追加される剰余価値は、最初に前貸しされる価値と同様に、不変資本と可変資本とに、分かれる。つまり資本が追加され拡大するためには、剰余価値は追加の労賃の支払だけに支出されるのではなくて、その一部は追加の生産手段のために支出されねばならない)
・「だから、古典派経済学も、不生産的労働者によってではなく生産的労働者によって行なわれる剰余生産物の消費を蓄積過程の特徴的な契機として強調する限りでは正しいのである。だが、古典派経済学の誤りもまたここから始まる。@
アダム・スミスは、蓄積をただ生産的労働者による剰余生産物の消費として説明すること、または、剰余価値の資本化を<その一部の生産手段への転換を無視して>剰余価値がただ労働力に転換されることとして説明することを、流行らせた。例えばリカードの言う所を聞いてみよう。
「一国の生産物は全て消費されるものと考えなければならない。……」
リカードもその後の全ての人々も、
「収入の内から資本に付け加えられると言われる部分は生産的労働者によって消費される」
というアダム・スミスの誤りを口真似していたのであるが、これ以上に大きな誤りはないのである。この考え方によれば、資本に転化される剰余価値は<生産手段へ転換される部分を含まず>全て可変資本になるということになるであろう。そうではなく、剰余価値も、最初に前貸しされる価値と同様に、<客体的労働条件となる>不変資本と<主体的労働条件となる>可変資本とに、分かれるのである<そうでなければ追加労働力は追加資本となるべき対象を生産することができないであろう>。@
労働力は可変資本<価値>が生産過程の中でとっている<素材的>形態である。この<生産>過程では、労働力そのもの<つまり価値を創造するというその素材がもつ使用価値>は資本家によって消費される。<生産過程にあっては>労働力は、その機能──労働──によって生産手段を消費する<ことで新たな生産物を生産する>。それと同時に<生産過程の外部では>、労働力を買うために支払われた貨幣は生活手段に転化し、この生活手段<のほう>は、「生産的労働」によってではなく、「生産的労働者」によって消費される<のである>。アダム・スミスは、<生産的労働はその対象として生産手段を消費することしか出来ないのに、あたかもその労働が労働力を再生産するための労働者の生活手段を消費するかのような>根本的に間違った分析によって、次のような馬鹿げた結論に辿り着く。……」(同、P767~)
古典派経済学者は生産的な「労働」が消費するものは、その対象となる生産手段ではなくて、労働能力自体を再生産するための生活手段であるといった、初歩的な間違いを犯しています。その原因は、剰余価値の源泉を労働自体(剰余労働=不払労働)に求めるのではなくて、労働“手段”の生産性の上昇に求める処に、すなわち不変資本(生産手段)にたいする“物神崇拝”によって不払労働を神秘化する処に、根拠を持っていると思われます。
なお最後に、資本の蓄積に必要な社会的な素材転換の問題の詳細は第2巻で触れるとして、こう述べられています。
・「<1節でのように>年間生産を一括した全体だけを考察しているあいだは、年間の再生産過程<がどのようになされるか>は容易に理解される。しかし、年間生産の全ての成分が商品市場に出されなければならないのであって、そこから困難が始まるのである。多くの個別資本や個人収入のいろいろな運動が、一つの一般的な場所変換──社会的富の流通──の中で交差し、混じり合い、紛れ込んでしまうのであって、この一般的な場所変換が、見る目を惑わせ、非常に複雑な問題の解決を研究に課するのである。この現実の関連の分析は、第2部の第3篇<「社会的総資本の再生産と流通」>で行なうつもりである。……」(同、P768)
コメント
コメントを投稿